以前、毎日日記を書いてネットに公開していたが、やめてしまった。
「こんなつまらない物をお見せするのが申し訳ない」とい罪悪感が湧いたからだ。
しかし今、日記をまた再開したい、という欲求がある。日記を公開した方が生活にメリハリがあるし、考えが深まっていく気がする。
一方、「罪悪感がある」というのが消えたわけでもない。だからここ1カ月くらい、ずっと悩んでいた。
一言で言うと「自分は、書きたい」「読み手は、つまらないかも」というジレンマに揺れているのだ。
・これは、実は日記公開だけに留まらない大きな問題だ。
「自分本位に生きるか」「他人のために生きるか」という人生の生き方に直結する大問題だと思う。
深く考える必要がある。
・精神病の治療という観点で言うと、「自分本位に生きろ」という主張が多い(気がする)。
ビジネスとしての物書き(ライター、小説家)の立場からは「読者視点に立て」とよく言われる。
で、客観的に見て、ブログは「好きに書けばよろしい」と言われている。
まあ無料で公開しているものに関して、過度に「配慮」する義務はない、というのも理解できる。
・結局、どこかに答えがある類の問題ではないのだ。
納得できるかどうかは「僕」個人の問題である。
僕の倫理観の問題である。僕の生き方の問題である。
これはおそらく僕の子供時代の家庭環境にも関係しているだろう。もうあんまり書きたくないので曖昧に書くが、自尊心が正しく育まれなかったがゆえに、自分の価値が感じられず、過剰に内罰的・自己犠牲的な感覚に陥っているーーという点はあると思う。
(いわゆるアダルトチルドレンによくある思考回路だ)
・では、こういう自己と他者に関する「認知の歪み」を克服するにはどうしたらいいか?
自己流の思い付きなのだが、カントが『永久平和のために』で書いていた「道徳」の定義が有効なのではないかと思う。
それは簡単に言うと、
「道徳とは、『誰もが行うべきだ と感じられること』である」
というもの。
つまり「正しさ」を、具体的な意味(例えば「うそをついてはいけない」とか)で定義すると、必ず矛盾する例外が発生するから、
そうではなく、『誰もが行うべきだ と感じられること』という形式で定義し、
個別の事案について「誰もが行うべきだ と感じられることかどうか」を考えてみることが、
道徳の正体だ、ということを書いていた。
(テレビで得た知識で、しかもうろ覚えなので、間違ってたらすみません)
これを、認知の歪みの矯正に転用すると、
自分の『日記をネットにアップしたい』という行為がが『罪深い行為』『あさましい行為』かどうかを判断するためには、
"『他の誰か』の『日記をネットにアップする』という行為が『罪深い行為』『あさましい行為』なのか?"
を、胸に手をあてて考えてみる ということになるだろう。
で、実際にそれを考えてみた結果、僕は、
「他の誰かが、自分を可愛がるあまりに日記をネットにアップしていたら、それはいじらしく愛すべき行為であり、ぜひ続けてほしいと感じる」
ということが分かった。
そのとあるAさんがそれほどまでに自身の生活について考え、大事に想い、それを書き留めておきたい、そして誰かに読んでほしい、なんて、とても人間らしく素晴らしい感情だと思う。
僕らはいつでも巨大なシステムの下で虐げられ、苦しみも悲しみも社会システムの前では無意味で、下手すれば生死ですら「些細な事」として処理されてしまう。
それに抵抗すること、一人一人の生を顕在化させることが、何かを書くという事、生きるという事の本質だとすら思う。
そう考えると、ただの日記を公開するというのは、何物にも代えがたい生命の営みであると、それほど輝かしいものにすら思える。
――と、主体が自分ではなく「とあるAさん」に代わっただけで、僕は驚くほど雄弁に、「日記を書くこと」を愛しているという事実を語ることが出来た。カント様様である。
で、ここからは恥ずかしいのだが、
「とあるAさんの日記は尊いものである(と僕は思う)のだから、僕の日記も尊いものである(と僕は思う)」
と、ここに宣言してしまおうと思う。
この回りくどいやり方で、僕はようやく主観と客観の認知のゆがみを超えることができた。
僕は、自分の日記を尊いものだと思っている。それを公開する行為も、公開したい欲求も、いじらしく、可愛らしい、人間らしいものだと思っている。
だから僕は日記をネット上に公開しようと思う。