kenpi20の灰色マインドマップ日記

都内で暮らす会社員のライフログ、現状把握、自己分析

【日記】 恋人に関する記事を全て消しました / 今後も書きません

 

このブログでは、1年ほど前まで、付き合っている(いた)某女性に関して、
名前を伏せていくつかの記事を書いていました。

 

が、今日、それらの記事を全て削除しました。

最近色々あって、関係が変化し、僕の中の心境も変化したためです。

ちなみに、本人に「消して」と言われた訳ではありません。ただ、僕自身が「悪いことをしていたな」と感じているだけです。

 

記事を削除したからといって、該当文書がネット上から完全に消え失せる訳ではないでしょうし、ネットに載せたという事実が消えるわけでもありません。
その分の罪は、今後も背負っていきたいと思います。

 

以上です。

 

 

 

 

【小説以外感想その1】『結果を出せる人になる!「すぐやる脳」のつくり方』(茂木健一郎) ――斬新さはないが堅実なタスク処理術

 

結果を出せる人になる!「すぐやる脳」のつくり方

結果を出せる人になる!「すぐやる脳」のつくり方

 

 

【ジャンル】 ビジネス書? 自己啓発本? 

【公開年】2015年
【読了時】2015年
【レビュー執筆時】2015年

 

 

■この本を読んだ理由
上司に薦められて(笑)。
ビジネス書は嫌いだし、茂木氏にも興味ないが、上司のご機嫌取りのために読んだ。
(最低の読者だ。)

 


■概要
仕事や勉強で結果を出すためには、「すぐやる脳」を持つことが重要。
「すぐやる脳」に切り替えるための時間管理法、仕事への取り組み方を具体的に紹介。

 


■感想
ビジネス書が大嫌いな僕にしては、思っていたほど不快に感じなかった。

内容が一般的で汎用性が高いからだ。
例えば「自身の中で達成感を持て」とか「柔軟なtodoリストを作れ」とか、そりゃそうだろうといった事が書いてある。斬新さがない分、堅実かもしれない。


だが、これらに根拠はない。
そして根拠もなく「脳に良い」とか書いてしまうのは科学的ではない。
脳科学者を名乗って脳という言葉を使うなら、少なくとも注釈で引用論文を明記すべきだ(たぶん無いのだろうが)。

また、これはビジネス書全般の傾向だが、著名なビジネスマンを都合よく引き合いに出すのは卑怯。
例えば「ザッカーバーグに代表される成功者は、服装に無頓着。その分の脳の要領を仕事に割いているのだ」などと書いているが、反例はいくらでも思いつく(というか大体の社長はスーツを着ている)。


要するに、全般的に根拠が希薄だ。
でもまあ、今まで読んだビジネス書はほとんどこうだった。*1

これがエッセイなのだとすれば、別に根拠などなくても良いのだが、
それにしては、屁理屈で説得力を偽装したり、実際の問題に対して断定的だったりする。
そういうやり方は、あまりにも無責任だと想う。

 

話が広がった。この本の話に限ってまとめると以下のようになる。

「自身の中で達成感を持て」「柔軟なtodoリストを作れ」「あまり気負わずに習慣化しろ」といったアドバイスは、個人的には結構好きだ。
しかし、これらが正しいという根拠は、この本の中にも、実際の世界にも存在しない。
だから鵜呑みにするのは危険である。
そして、根拠もないのに断定的に書くのは非倫理的だ。

 

以上。
こんな不道徳な読み方をされて、作者も大変だな、と想う。

まあ、ビジネス書好きでも何でもない匿名ブログのイチ意見ということで。*2

 

 

 

 

 

*1:5,6冊しか読んでいないが。

*2:逃げ。

【日記】 趣味の小説を書き終えた。


趣味の小説を書き終えた。

やっとだ。はーー。疲れた。

 

原稿用紙換算で779枚。

今までは、同人活動で最長でも300枚くらいだったから、こんなに長いものを書くのは初めてだ。

これでようやく僕も「同人で書き上げたことがある」から「賞に出したことがある」にランクアップできるわけだ。ははは。


しかし疲れた。達成感は……あるっちゃあるが、"万能感"と呼べるほどの物ではない。
執筆後に万能感を覚えたのは、二十歳くらいまでだった気がする。
これはおそらく成長だろう。そう思いたい。

 

今回は、書き上げるまでに二年くらいかかってしまった。
もちろん、明らかに時間がかかりすぎだ。計画外。書いてない時期もあった。大きな反省点だ。
まあ、失敗した分、次はもっと上手くやれるだろう。

 

書くのは楽しい。書き始めるのが大変だ。一度机に向かってしまえば大丈夫。

「書く」という行為は、僕は決して向いていないけれど、不向きな訳ではないかもな、と少しだけポジティブな気分でいる。

 


明日から校正に入る。スケジュールはそこそこ決まっている。

そしてその次に書く話も、大筋は決まっている。これが結構面白くなる予感がしている。

これからは、もっともっと死ぬ気で書いていかねばなるまい。さあ、書いていこう。

 

 

 

まあとりあえず、今日は書き上げられて良かった。ホッとした。

 

こんな田舎に赴任していて、祝う相手も居ないというのも寂しい話だが、それはそれで僕らしいだろう。
明日から仕事だけど、何か美味しそうなお酒でも買ってこよう。

 

 

 

【日記】淡い淡い望みが人生を延ばす

 

ひさびさに単なる日記でも。


今日は休み。漫画を読んでから、趣味の小説を書いて過ごした。

小説は賞に出すつもりで少しずつ書き進めているのだけど、今月中には書き終わる。ようやくだ。ほっとするやら何やら。書き終わったら次のものを書く。

 

そんな訳で、たくさん文章を書いたので脳みそが疲れていて今日はあまり気の利いたことは書けそうにない。いつものことか。

 


---


「小説を書くのは良い気晴らしになる」これはちょっとだけ嘘。
文章を書くのは疲れる。書く前には「うえー、やだなー」と思う。書き始めるとそうでもないんだけど。

賞に出す、ということは当然、淡い期待が込められている。
この淡い期待は、僕を生存させる唯一最大の存在という訳ではないけれど、それでいて結構重要なものだ。

未来に対する希望。言い換えると、目標。そういうものがないと僕は生きていけない、と思う。

 


現実逃避かもしれない。というか、たぶんそうだ。

今の仕事(というか研修)は肉体的に辛い。こっちに友達も居ない。平凡でつまらない生活。
また数ヶ月したら環境が変わるけど、それで全てが改善される訳ではもちろんないだろう。

ずっとこれが続くのだとしたら、耐えられない。


それに対する逃避のひとつが、小説なのだろう。
(他には、転職とか、結婚とか? おぼろげに考えたり、考えなかったり)

 

 

---

 

僕の勝利条件は何か。

今の会社のお偉いさん。見てもそんなに羨ましくない。今の会社の事業自体にそんなに興味がない。*1

彼らは美味しいものを食べて、周りにデカい顔をして生きていくのだろう。社会に対してもエラそうに出来る。しかしそれも羨ましくない。

以上より、会社で出世することは多分ぼくの勝利条件ではない。*2
(そもそも安定性だけを求めて入ったのだから入った時点で会社には何も求めるものはない。僕の立場は解雇もされない)

 


でも別に他にやりたい仕事もない。強いて言えば、もっと給料が少なくていいから拘束時間の短い仕事が良い。それで、他の時間に映画や漫画や小説を読むのだ。ははは。これもまあ、そんなに強い希望じゃない。

 


仲の良い夫婦は……ちょっと羨ましい。しかしこればっかりは、努力して何とかなるものではない。運だ。
僕はほんのちょっとだけ女の子に好かれたことがあるのだけど、彼女たちの言うポイントは、全然意識したことのないところだった。人に好かれようとしても、無意味なのだと思う。

 

 

だから僕の人生には当面、目標がない。
下手に「安定」を求めてしまったせいで何もなくなった。
このまま休日が来る度にスーパーの弁当を食べてビール飲んでタブレットで映画見て過ごせばいいのだろうか。それもおそらくそんなに悪くない。むしろ恵まれている。そしてそうしている人も多いだろう。

 

でも、僕は多分それが嫌なのだ。
だから何となく夢想する。変化を。不安定を。

そしてそれを具体的な行為で「進めて」いないと心配だ。

それが僕にとっての小説なんだと思う。それは本当に、淡い淡い現実逃避だ。

 

 

 

何にせよ僕はこのまま死にたくない(ああ、書いているうちにはっきりそう思えてきた)。


正確に言えば、「このまま生きたくない」のだ。

でも、どう生きたいのかはさっぱり分からない。

全ての感覚が鈍感で、人に会う楽しさも、物語を消費する楽しさも、小説を書く楽しさも、お風呂に入る楽しさも、楽しいのだけど、何だかぼんやりして感じる。

 

人生の本質ってどこにあるのだろうか。見つけたら分かるものなのだろうか。天地はいつかひっくり返るのだろうか。


ひとつひとつ試してみるしかない。それまでは短期的に自分を慰めつつ、ケアしつつ、何とかかんとか生きていくしかない。

僕にとっての大事なものが見つかるまで。

 

 

*1:安定性だけを選んで入ったので

*2:いかにも「今時の若者」だ。はは。

【小説感想その1】『Self-Reference ENGINE』(円城塔) ――自己言及による存在の危うさを,SF的ガジェットとウィットたっぷりに描く

 

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

 

 

【公開年】2007年
【読了時】2015年
【レビュー執筆時】2015年

 


■この本を読んだ理由
友人に薦められたため。
その話を別の友人Bに話したところ、後日、友人Bがプレゼントしてくれた。*1

ちなみに僕はSF初心者である。
国内SFをほとんど読んだことがなく、円城塔も名前だけ知っている存在だった。
そういう意味でも、読みたかった。

 

 

■あらすじ
とある"イベント"が起きた後の世界。
"イベント"により時間の進み方が壊れ、霧散している。要するに過去と未来の進行方向が壊れ、因果が壊れ、演算と結果の関係も壊れている。
そんな世界における大小様々なエピソードを,ウィットたっぷりに描くSF短編集。

 


■感想
僕はこの小説が凄く好きだ。だが深読みしないと楽しめない小説かもしれない、とも思う。

 

まず表層を読むと、SF要素やSF設定(要するにガジェット)のみが乱暴に並べられた短編集である。
小説が成立する上で最低限必要な要素が揃っていない。例えば主人公や、各エピソードの繋がりはあまりにも希薄だ。単なるおバカなSFとして読まれるかもしれない。実際、そういう読み方もアリだろう。

 

しかしこの小説はそれだけではない。
テーマは『自己言及』である。

 

まず、各エピソードも(実は)そのテーマに添っている。
例えば「自己消失を研究した研究者」の話。彼女は素晴らしい功績を残したが、あまりにも素晴らしく自己消去できてしまったため、存在を忘れられている。しかしそれを語り手が語っている矛盾。
また例えば、「処理速度を求めた人工知能が、計算結果である自然現象と一体化する」話。目的と結果が逆転してしまった訳だが、しかし、どちらが目的として正しいかなんて誰にも分からない。

 要するに、自己言及と、それによる存在の危うさを描いている、と(少々乱暴に)捉えることが出来る。

 

ここで、一歩だけメタな(巨視的な)視点で見てみよう。
この『Self-Reference ENGINE』という小説は、終始こんな調子で、繋がりがあるような無いような微妙な短編が描かれている。ラストも決定的なものではない。
こうした「本質を描かず、ガジェットに終始する」という手法は、「SF小説の本質はガジェットに宿る」という主張であるようにも読める。もしそうだとすれば、SF小説における『全体』と『要素』が逆転していることになる。
そう、つまりこの小説の『流れ』自体が、SF小説に言及している。自己言及である。
しかし待てよ、それはおかしい。「要素が本質であることを、『流れ』によって述べる」? 明らかな矛盾だ。
そういう訳で、この小説の流れ自体も、自己言及と、それによる存在の危うさを描いている。

 

さらにもう一歩、メタな視点で見てみよう。
この作品は小説である。文字で描かれている。小説の存在意義は、読まれることで発生する。一方、価値が無い小説は読まれない。読まれることで価値が生まれ、価値があるから読まれる? なんと危うい存在か。しかもこの小説に書かれているのは「自己言及」。またもや自己言及と存在の構図が見えてくる。

 

さらにメタな視点へ。
この小説の作者は円城塔である。本書の中で、ごくたまに語り手の正体が明かされていない章がある。普通に考えれば、そこの語り手は円城塔自身。語り手は語る。
『私の名はSelf-Reference ENGINE
自己言及である。語り手は、読まれることによって存在する。

 


以上のように、本書は、あまりに多重的な意味で「自己言及」している。
この構造自体が非常に面白かった。
メタフィクションとして、これ以上のものが存在するのか? と思えるほどに完成された一冊だった。

 

 

■感想(文体について)

本書について賛否両論あるとすれば、ウィットに富みすぎた文体だろうか。
小難しいということはない。難しい単語もあるが意味が分からなくても読み進められる。*2
ただ、小粋なジョークが非常に多く散りばめられている。それがツボにはまるかどうかはおそらく人を選ぶ。
僕は「結構好き」くらいの立ち位置である。*3

 

■感想(物語論なんてクソくらえ) 

本書は、物語において必要とされる要素(プロットや魅力的なキャラクター)が排除されているくせに、面白い。

要するにプロットやキャラクターなんてものは、新規性を生み出せない側の人間が使う、汎用性の高い武器なのだ、と思った。それ故に分かりやすいから大衆受けもする。

しかし、それらの物語的要素は必須ではない。円城塔が証明した。やはり小説は、工業製品ではなく、芸術作品となり得る。それが僕には、嬉しくもあり、嫉妬せざるを得ない。

 

 

■蛇足の感想(自己言及について)
プログラミングを勉強しはじめ、ループ構文を始めて知った時、自己言及によるエラーを吐いた経験は誰しもあるだろう。
自己言及は一瞬にして無限に発散する。
一方で、自己言及は元の定義をおそろかにする。
(この関係は、タイム・パラドックスにも近い)

エラーを吐いたプログラムを見て「すごいものを作ってしまったなあ」と笑ってしまう訳だが、おそらく円城塔はそこで終わらなかった。
自己言及の持つ力を知った時、その感慨を、形にしようと思ったのではないだろうか。

 

本書は円城塔の処女作である。
処女作でこれだけの物を書くのだから、もう化物としか言いようがない。

 

 

 

 

 

*1:こんな幸福なことが他にあるだろうか!

*2:ハードSF読者にはよくあることだ。

*3:ただ、靴下の話やフロイトの話はちょっと滑っているようにも感じるが。

【演劇感想その2】『光陰』(制作:岡山大学演劇部) ――重いテーマの脚本に,廃小学校という会場で挑む

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【会場】旧内山下小学校 音楽室2(第2資料室付) (2F2-13)
【作】 塚本 健一
【演出】 宮崎由理
【出演・スタッフ】岡山大学演劇部*1
【公開年】2015年 9月
【視聴時】2015年 9月
【レビュー執筆時】2015年 9月

 


■この演劇を観た理由
郵便局前駅の周辺をぶらぶらしていたら、当公演のポスターを見つけたので、その足でふらっと行ってみることにした。

ちなみに、僕は演劇関係者ではない。スタッフの知人でもない。
また、観客としても初心者である。*2


■あらすじ
保育所で働く女性・エリに異変が起きた。

エリの恋人は、その原因が「10年前の事件」にあると考え、真相を知るためエリの実家を訪れる。

10年前、エリの姉は強姦の末、殺された。
事件はとっくに解決したと思われていたが、どうやらそうでもないらしい。

そして明らかになる、当時の家庭不和、家庭内暴力

10年前、何が起きていたのか。そしてエリに起きた異変とは何か。エリの心にはどんな傷が残っているのか。

真相は10年越しに明かされ、また閉じていく。

 


■感想
※あくまで正直に書くので、批判的なことも書くかもしれません。すべて個人の感想です。ご了承下さい。

 

まず、この演劇は既製脚本である。なので脚本とそれ以外の部分について、分けて感想を書こうと思う。
(厳密には、どこまでが既製でどこまでが製作物なのかよく分からないけれど……その辺は適当に)

 

□脚本について
学生演劇とは思えないクオリティだ! と思っていたが、既製脚本だと聞いて納得。それだけ骨太だった。

重いテーマを、ギャグに逃げずに90分もたせるのは立派。というか、大学サークルが公演でこのような題材(の脚本)を選び、演じたことが立派である。


しかし、脚本について気になる点がいくつかあるので書いておく。

まず、「10年前の事件には謎が残っている」ということを最初に明示しておけば、話にとっつきやすくなると思う。
これがないと、話のオチがどこにあるのか、何に向かっているのかよく分からなくなる。

また、真相の判明方法も雑だ。推理や伏線もなく、記者が「僕の調べによると○○だ」と唐突に言う。これでは納得できない。本格ミステリであれとは言わないが、従兄弟の台詞などで、それらしい描写を入れると、謎が明かされる楽しさを観客も味わえると思う。

そしてラストだが、エリが救われたかどうかが曖昧なまま終わってしまうのが消化不良に感じた。
ハッピーエンドでもバッドエンドでも良いが、一連の騒動によって人間(エリ)は変化した*3、という点があると、物語に意味が生まれ、面白くなると思う。

さらに言えば、その変化が、奔走した恋人によるものであれば尚すっきりする。

あとは倫理の話だが、「家庭内暴力は世代を超えて繰り返される」ということが、自明の事実として使われていることに違和感を覚えた。
この言説は、確かに一般的によく言われる話だが、100%起こる訳ではない。そしてこれはナイーブな問題なので、取り扱いには注意しておくと、観客に優しい物語になる。

 

まとめると、ありきたりな言葉になってしまうけれど、起承転結*4をハッキリさせると、テーマを考えさせる物語になると思う。

 


□脚本以外について。
演技・スタッフは演劇部の面々によるものである。

 

まず、女性陣の演技が良かった。
特にキョウコ役。憎たらしい役だったが、それ以外も出来る役者さんなんだろうなという印象。*5
アサオカ役も良かった。大人びた性格で、感情の変化もあり、難しい役だっただろう。練習の成果が出ているように見えた。
他の役者も含め、今後の活躍に期待したい。

 

音楽は、BGMを多用しないのは得策だったと思う。ラスト以外は、蝉の音と時間を巻き戻す音くらいか。それで良いと思う。

 

照明は、真っ暗になるのは最初と最後だけで、その他の場面転換は薄暗い中で堂々と行われていたが、これは別に毎回真っ暗にすればいいのではないかと思った。
劇場ではないから、慣れていない観客(や子供)への配慮だったのだろうか。それならそれで良いと思う。

 

その他、スタッフの皆さんに不備はなかった。学生演劇ではこれが案外難しい。非常に良かったと思う。お疲れ様でした。

 

 

□会場について
今回の会場は、廃校になった小学校「旧内山下小学校」の音楽室だった(!)。
地元民でもないのでよく知らないのだが、『ハイコーチャレンジ!!』という地域活性化イベントの一環らしい。色々なことを考えるものだ、と思った。

 

こうした特殊すぎる環境で演劇をやるとして、当然、「廃校の小学校」という要素を用いた演劇というものを考えただろう。

しかしこれは考えるまでもなく難しい。

「小学校で小学校の劇をやる」上で、現実と劇を完全に分離してやることは観客には不可能だろうし*6、現実と劇を織り交ぜてメタフィクションに仕立てあげることは正直言ってハードルが高すぎる。*7

だから、今回のように会場と関係のない脚本を選んだことは、無難で理性的な判断だ。

だが一方で、学生なのだし、もっと冒険してみても良いかな……? とも少し思ってしまう。これはおそらく好みの問題だ。

しかし、メタフィクションをやるとしたらどうする? ちょっと考えてみるのは面白い。

 

何にせよ、廃校の小学校で演劇をやる(見る)というのは双方にとって面白い試みだっただろう。それを単純に喜ぶべきなのだと思う。

 


□まとめ
重いテーマに挑み、演じきった、という点が素晴らしかった。
僕は岡山大学演劇部の公演を見るのは初めてだったし、廃校の小学校なんて所に来るのも初めてで、色々と面白い体験が出来た。
楽しい時間を、ありがとうございました。今後の活躍に期待しています。

 

 

■個人的な思い出
ちょっと他者の個人情報的な話ですが、すみません、書かせて下さい。

僕の近くの席に、地元の女子高生と思われるグループが居た。
劇が終わった時、

「ほら、面白かったでしょー!」
「面白かった! 大学の演劇って凄いんだね。○○が、この大学の演劇部に入りたいって言ってるのも納得した!」
「でしょ? 私、本当にここに入りたいんだ!」

という会話をしていた。

 

いいものを見たな、と思った。
やはり公演という行為は素晴らしい。今後もどんどんやっていってほしい。

 

 

 

 

 

*1:ネット上で名前を公開していないようなので,ここでも伏せておきます。

*2:これが演劇6本目くらい

*3:あるいはしなかった

*4:「起」→事件の謎、「転」→事件解明、「結」→エリの変化

*5:彼女のシーンは台詞も良かったですね

*6:なにせ彼らは、昇降口から入って階段を登りここまで来たのだ! それを忘れさせるのは至難の業だろう。

*7:寺山修司『青ひげ公の城』素晴らしかったです。

【演劇感想その1】『糸、あと、音。』(制作:『時々、かたつむり』) ――SF門外漢が描く,それ故にちょっとユニークなディストピア物

 

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【会場】小劇場 楽園
【出演】二ツ森恵美、高橋綾乃、吉田のゆり、高橋実友、三村萌緒、森原彩夏、他
【脚本・演出】菅原達也
【舞台監督】 小川陽子
【演出部】 イサカトモフミ、小川鮎化
【音響】 イサカトモフミ
【照明】 古橋瞳
【宣伝美術】 小川原可菜
【制作】 小林美穂、島崎雅大
【公開年】2015年

 

【視聴時】2015年
【レビュー執筆時】2015年

 

 

■この演劇を観た理由

ポスターに惹かれて。
お盆に東京に帰ることになり、何か演劇を見たくなったので。

ちなみに、僕は演劇関係者ではない。スタッフの知人でもない。
また、観客としても初心者である*1

 

■あらすじ
時は近未来。舞台は、天候を管理する目的で建てられた超高層タワー。
タワーの運営を司る思念体は、タワーの中に生活の全てを用意することで、人類を幸福へ導こうとしていた。
そしてその計画は順調に進み、飲食店・商業施設など全てが揃ったタワーの中で、人類の大部分が過ごすようになる。

しかしそんな刺激のない人生に満足するほど、人類は単純ではなかった。
タワーの外の世界に戻りたがる女性。タワーの中で占い師として生きる女性。タワー外の生活を捨て、アナウンサーとして活躍する女性。思念体によって作られ、業務を実行する女性。そして、頑なにタワーの中で入ろうとしない女性。

彼女たちの思惑が交錯する中、大洪水が巻き起こる。

 


■感想

※あくまで正直に書くので、批判的なことも書きます。すべて個人の感想です。ご了承下さい。

 

現代演劇には珍しく、SFで、しかもディストピア物である。
とはいえ、「作られた理想郷(とその闇)」という設定は、SFとしてはかなりベタだ。
火の鳥未来編やパラノイアなど。タイムマシンなども広い意味ではそうか)

少し特殊なのは、占い師という非科学的な商売が存在していたり、アナウンサーを未だに人間がやっていたりする部分だろうか。
要するに、まだそこまでガチガチの理想郷が出来ていない世界な訳だ。

勝手な想像だが、この「微妙な理想郷」という設定は、狙ってやった訳ではなく、脚本家がSFをあまりよく知らない*2ため生じたのではないかと思う。が、まあ、そこがユニークな点なので結果としては良かったかなと思う。

 

もう一点、いわゆるSF作品と違い特殊なのは、設定の説明をあまりしないという点だ。
タワーを管理する思念体の正体も不明だし*3、思念体が作った少女二人の正体も不明だ。
そもそもタワーの構造(高さや収納人数)もよく分からないし、どのように管理されているのかも不明。
これも脚本家がSFに詳しくないからだろう。
こうした要素を説明しなくても成り立つのは、演劇という媒体ならではだろう。
私見だが、演劇は「説明しないまま進む」という脚本に強いと思う。最後まで説明しなくてもいい。劇場で「よく分からないこと」を肌で感じるのが楽しいのだ。SF小説SF映画ではそうはいかない。*4
この点が最も楽しかった。

 

だが、「脚本家がSFに詳しくない」故に良くない点もあった。
ラストである。
この話のラストは、(ネタバレ反転→)「結局タワーの理想は否定され、人の繋がりの重要性が説かれ皆が救われる」(反転ここまで)という物だが、これはあまりにもベタだ。そしてそこに至るまでの犠牲も少なすぎる。曲がりなりにもディストピア物を描くのなら、過去の作品とは違う結末か、ベタな結末を補う展開・演出が必要となるだろう。
一言で言うと、安易にSFに手を出してしまったのでは、と感じた。

 

*

 

他の点についていくつか。

前述の「説明しないまま進む」という話と被るが、
最初10分ほど、場所も時代も説明せずに話が進んでいくところがとても好きだった。
人造人間らしき女性二人が詩のようなものを読み上げている冒頭などはかなり好き。
物語とはあまり関係なく挿入された、可愛らしいダンスも結構好き。女性たちが真顔で、ニワトリの真似のような振付を踊るのは単純に可愛らしい。この話に必要なのかは全く分からないが。

 

逆に言うと、開始10分くらいで、堰を切ったように「タワーが作られた理由」などが説明されたが、ああした説明はもっと後でもいいかもしれないと思った。すなわち、30分とか45分くらい、状況説明なしで女性たちの会話を聴かせるのだ。
その方が僕好みだが、しかし、その後のキャラクター描写が少なすぎると感情移入出来ないかもしれない。難しいところだ。

 

最後に役者さんについて。若い女性ばかりを用いるというのは、商業的なあざとさは感じるけれど、確かに見栄えはする。若い女性ばかり出てくる割には、脚本もまあ無理は無かったと思う。演技については特にコメントはない。

占い師役の吉田のゆりさんが綺麗だった。今後に期待。*5

 

最後の最後に、今回の開催地『小劇場 楽園』について。
地下の劇場なのだが、なんと観客席が二方向に分かれている。劇場を囲う四方向のうち、二方向が観客席なのだ。"第四の壁"も何もあったものではない。
これは、いかにも演技しにくいだろうなあ。この形状を利用した演劇……というのもあまり思いつかない。しかしユニークなのは良い事だと思う。多分。

 

*

 

感想は以上。

「安易にSFに手を出したな~」というネガティブな部分と、「SFをよく知らないが故にこう出来たのか」というポジティブな部分がある演劇だった。

 

またこの脚本家の作品を見ることがあったら、おそらく今度はSFではないだろう。
それを見たら、またこの作品に対する感じ方も変わってくるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

*1:まだ演劇を5つしか見ていない。

*2:インタビューで仰っていた

*3:後のトークで少し語っていたが作中では言及なし。

*4:完全な私見で、根拠はありません。

*5:演技がどうとかではなく単純に好みの話だ。……下世話な感想でごめんなさい