ミステリの議論で、「この作品は本格ミステリかそうでないか」という議論が大昔からあります。
"本格ミステリ"とは、簡単に言うと"読者が推理して犯人を特定できるもの"のことです(諸説ありますが)
極端な例を挙げると、
「この時、トリックを実行できたのは背の高いAさんだけだ。だからAさんが犯人だ」
と、読者が自分で推理できる(納得できる)ものが本格ミステリで、
「犯人は魔法で殺した。言ってなかったけどAさんは魔法使いだ。だからAさんが犯人だ」
というように、読者に推理しようがないものは本格ミステリではないわけです。
つまり、「本格かどうか」とは「フェアかアンフェアか」とも言い換えられますね。
この問題を、とても重要視する人もいれば、まったく重要視しない人もいます。
「こんなの本格じゃない!」と怒り狂い、本格じゃない本を全否定する人も居れば、
「本格か否かなど下らない。そんな定義は必要ない」と強く憤る人も居ます。
近年(2000年以降くらい)では、後者の「本格か否か」を重視しない人が圧倒的に多いように感じます。
「多様な作品があって良いじゃないか。枠組みの中で評価するなんて下らない」
という意見が大多数に感じます。
その思想が表に出ている作品として『うみねこのなく頃に』があります。
これは、「ある洋館で起きた殺人事件」を見ている作中人物たちが、メタ的な視点から推理合戦をするという作品です。
特徴として、作者が作品内外から「推理できるものならしてみろ。屈服させてやる」と宣言している点があります。
つまり「本格かどうか」という問題を、作者側から提起している稀有な例です。
「本格かどうかを明示する必要はない。それが事前に知っていないと怒り出すような者は馬鹿だ」
といった発言さえしています。
※僕はこの作品は読む価値もないと思っているので、ここにオチを書きますが、この作品は本格ミステリではありません。
まず、最後まで読んでも各事件の謎(密室など)は明かされません。それ自体は構いませんが、論理的矛盾がたくさんあり誰であっても犯行が不可能で、本格ミステリとして成り立っていません。作者は成り立っているつもりらしいのですが。
まぁこの作品のことはどうでもいいとしても、「本格化どうか」の議論そのものが嫌われているという向きがある、ということです。
ですが、僕はこの議論は必要だと思います。
「本格化か否か」は、議論され、明示されるべきです。少なくとも売り手はそうすべきでしょう。
何故なら、僕たちは本を実際に読むまで内容を知り得ないからです。
「本格かどうかを定義しない」という行為を認めてしまえば、極論を言えば、恋愛映画もホラー映画も「本格ミステリーですよ」と謳っていいということになります。「中華料理屋」と言ってケーキ屋さんを経営してもいいことになります。
ミステリに関しては、実際にそういう作品が世に出ています。
僕らには好みがあります。好きな本を読み、好きなものを食べて暮らしたいと願うのが人情でしょう。
そのための、事前に「この小説が自分に合っているか」を知るための唯一の手段が、「カテゴリー分け」です。
「この映画は恋愛モノですよ」「この映画にはグロテスクな表現が含まれていますよ」といった宣伝文句だけを頼りに作品を選ぶしか無いわけです。
それなのに、「本格か否か」の議論が全くなされなくなったらどうでしょうか。
「犯人は誰だろう?」と推理しながら読んでいたのに、「犯人は魔女。全て魔法でした」という結論で終わるかもしれません。
逆に、夢と魔法のファンタジーが読みたいのに、名探偵の理屈っぽい講釈を延々と聞かされるかもしれません。
作品として何が悪いという話ではありません。ただ、カテゴリ分けは重要だという話です。
僕は、何でもかんでも「本格ミステリ」と呼ばれる現状にはかなり辟易しています。
『うみねこのなく頃に』のような故意で悪質な誤用もありますし、安易にミステリ的な設定(嵐の孤島や密室、探偵など)を登場させて本格だと誤解させる例もたくさんあります。
このような作品が生まれるのは、ミステリをよく知らないのに、ミステリの人気にあやかろうとする作家が多いからでしょう。
非常に残念です。
僕はここで現状を憂うことしか出来ませんが、最後に僕の意見を再度書いておきます。
・「本格か否か」は、読者にとって議論すべき問題だ。
・「本格か否か」は、その作品の価値には一切関与しない。
・本格は本格として、そうでないものはそうでないものとして売りだして欲しい。
明示を強制はしないが、せめて誤表記はやめてほしい。
以上です。
僕は本格ミステリもそうでないもの(変格、なんて言われますね)も好きです。
それ故に、事前にどちらなのかを知っておきたく思います。