今日は割と心が穏やかだ。
朝からずっと大学の研究室で研究をしている。
これが結構楽しい。
具体的に何をしているのかというと、
今は論文を読みながら、研究の論理構成を再確認している。
ちょっと何言ってるか分からないと思うので、私の思う研究の流れを以下に書こう。
①過去の論文を読んで、世の中の問題点を見つける
②その問題点を解決するための、新しい方法を思いつく
③過去の論文を読んで、その「新しい方法」が既に誰かにやられていないか調べる
※既にやられていた場合、最初からやり直し。
④「新しい方法」の効果を証明するための実験方法(実験条件・装置の設計図など)を設定する。
※うまく実験ができそうにない場合、最初からやり直し
⑤実験の用意をする(実験装置を作る、プログラムを組む等)
⑥実験をして、結果をまとめる
※良い結果が出なかった場合、④からやり直し
※良い結果が出ないのが実験方法のせいじゃない場合、最初からやり直し
⑦実験結果が「新しい方法」の効果を実証していることを今一度確認
⑧これまでの流れを論文に書いてまとめる
さて、①~⑧のなかで、最も大事な作業はどれだろうか。
それは、②「新しい方法を思いつく」である。
"研究"というと、白衣を着て実験をしたり、ロボットを組み立てたり、論文を読んだり書いたりする状況を思い浮かべるかもしれない。
しかし、そういった行為(実験、装置製作、論文執筆)はオマケにすぎない。
研究の本質は「思いつくこと」にある。
何故か。
それは、「思いつくこと」だけは、本人にしか出来ないからである。
実験したり、装置を作ったり、論文を書いたりという行為は、能力があれば誰でも出来る。そしてその能力とは、訓練によって得ることが出来る。
なぜなら、それらは論理的だからだ。
実験をするには、実験の方法を調べればいい。
装置を作るには、プログラミングや機械工学の教科書を見ればいい。
論文を書くには、論文の書き方を書けばいい。
時間と根性さえあれば、誰にでも絶対に出来る。
しかし「思いつくこと」は違う。
決定的な方法論がない。
何故なら、「思いつくこと」とは「論理を飛び越えること」だからだ。
のどが渇いている人に水を与えることを提案しても研究とはいえない。
論理的で、当たり前だからだ。
のどが渇いている人に、井戸の掘り方を教えたらどうだろう。
これも当たり前の範疇かもしれない。
では、のどが渇いている人のために、空気中の水分を凝縮させる方法論を提案するのはどうだろう。
「そんなの本当に出来るの?」と言われるだろう。
それが良い。
分からないからこそ実験で証明するのだ。
出来ると分かりきっていることは研究対象にはならない。
「そんなの本当に出来るの?」ということを「思いつく」ことが、研究の本質である。
もちろん、「本当に出来ない」のであれば、その「思いつき」は無意味だったことになる。
出来るのか、出来ないのか? それを判別するのが、先ほど述べた「オマケ」(装置開発、実験、論文執筆)である。
これによって、思いつきの良し悪しを判別する。悪ければ、努力は報われず、ふりだしに戻る。
研究は「ふりだしに戻る」の連続である。
こう捉えると、研究とは「思いつく行為」と「それを実証する行為」だとも言える。
いい加減な論文や研究者が多いのは、「実証する行為」を怠るからである。
確かに実証は怖い。ふりだしに戻る危険性が付きまとうからだ。
しかし正確な実験で実証しない限り、その「思いつき」は、
それこそ単なる思いつきでしかない。
先程はオマケと書いたが、そういう意味では実験・論文も重要な要素だと言える。
さて、私の修士論文は今、④⑤あたりにある。
どうやら仮説が実証できそうな気がする、といった所だ。
どうなるかは分からないが、それを突き詰めて考えている今はとても楽しい。
繰り返すが、研究者の価値とは「思いつけるか」にある。
これは他の職業にも応用できる考えだとも推測できるが、実際にはよく分からない。
私に分かるのは、論理を飛び越えることの楽しさだけである。
何かを発想する、思いつくという行為そのものは、どこまでも自由だし、制限がない。
研究でなくても、創作活動やグループの活動などで、
そういう楽しさを感じられたら素晴らしいことだと思う。
長々と偉そうなことを書いて、自己嫌悪がモクモクと沸き上がってきた。
まあ、このような匿名の記事を真に受ける人は(良くも悪くも)あまり多くないと思うのだが、
ただ言えるのは、私は私なりに真面目に書いたということだ。
進路や人生に悩んでいる人は、ひとつの参考にしてもらえたら嬉しい。