kenpi20の灰色マインドマップ日記

にわか作家志望(某メーカー研究職、新入社員)による、現状把握・思考整理

【生き方】 「幸福追求のための自分ルール設定」を止めてみる

 

 


何故か今だに生き辛さを感じている。 

 


原因は何なのか。解決策は何なのか。

もうずっと昔から考え続けており、仮説を立てて検証してきた。 

 


が、もしかしたら、

その「生き辛さの正体探る行為」(=幸福について考える行為)自体が、生き辛さを生んでいるのではないか?  

 


そう思い、これから二カ月ほど「幸福について考えずに生きてみる」を試すことにした。 

 

 

 

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具体的な作業は、以下の通り。

 


・普段行っている、「こんな生活で良いのだろうか」「どうすれば幸福になれるのか」という自問を、意識的に行わないようにする。

 


・普段行っている、「やるべき作業のリスト」(家事、自己啓発など)を見るのをやめる。

 ※必須の作業は、任意のタイミングで行う。

 

 


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上記のルールを、5/12から実践している。 

ひとまず二カ月は続けてみようと思っている。

 


考えてみれば、本当に小さい頃から「幸福とは何か」を考えてきた。

物心ついた頃から、と言ってもいい。 

 


そんな染み付いた思考を手放して10日ほど経った。 

最初の数日は、無意識に人生について考えてしまい、それを強引に引き剥がす、ということを沢山した。 

その頻度は恐ろしいもので、仕事中・プライベートに関わらず1時間に一回、二回のペースで行っていたと思う。完全に癖になっていたと思う。

 


また、ルールに囚われず生活することで、得体の知れない不安感に襲われてもいる。 

自分が何処にも進んでいないという感覚。このままの状態で人生が終わってしまうのではないかという不安感。 

 

 

 

しかし客観的に見て、別に僕の人生は「このままの状態で」終わってしまっても構わない筈だ。 

腹の底から幸福を覚える瞬間もあるし、「今の自分は恵まれているな」と思う事もよくある。 

 


そもそも僕は何を怖がっているのか? よく分からない。 

 


無理やり理屈を付けるとしたら、

「長い間不遇だったから、『現状を打破しなければならない』という強迫観念に囚われている」 

という所だろうか? これが正しい保証も何処にも無いが……。 

 


とにかく、僕は上記ルールを7月まで進めてみるつもりだ。

自分で決めた小説執筆スケジュールも、ブログ更新期限も、日記をつける習慣も、全て投げ打ってみる。 

 


これで楽になれればいいと切に願う。

 

【創作論】 小説執筆のモチベーション維持方法 ーー頭に浮かんだシーンを好き放題書く

 

最近、また小説を書き、新人賞に応募している。

 


今までも書いてはいたのだが、時間が取れないなどと言い訳をしてあまり進んでいなかった。それをここ数ヶ月でサクサク進め、また出版社に応募し始めた。 

 


「小説を書く」という行為自体は、趣味や同人で何度かやった事があるので、出来ないということはない。

それよりむしろ問題なのは、モチベーションの維持ではないだろうか。特にアマチュアの場合、そちらで悩んでいる人間の方が多いような気がする。 

 


しかも僕の場合、既に働いているので、書かなくても飢えて死ぬ訳ではない。仕事も忙しくなく、家庭や人間関係も問題ない。気分の浮き沈みも、あまり起こらない。現在、特に何かに困ったりしていない。

 

つまり、生活をモチベーションにすることかできない。書かなくても誰も困らない。

 

そうでない人であっても、「小説家を目指す」という道は、明らかに金儲けの手段としては非効率で不確実だ。

小説などというものは、絶対に、生存戦略に勘定してはならない。

 

それでは何の為に書くのか。

 


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書く理由は、いくらでも用意できる。


自己満足。自己顕示。露悪趣味。栄誉のため。書くのが好きだから。

 


どれも正解のようでいて、それほど強い感情ではない。そもそも、自己顕示欲等を満たしたいだけなら別の方法がいくらでもある(起業とか)。

自分かし、特に考えもせず「理由はこれだ! これが俺の原動力なのだ!」と宣言することで悦に入りたくはない。

 

 

 

なぜ小説を書くのだろう?

それを考えているうちに、自分が何をしたいのか、どのような小説を書きたいのか全然分からなくなって、ひどい時には書く手が止まることもあった。

 


では書かないのが良いのかというと、そうでもない。書かずに漫画を読んだりして過ごしても、どこか満たされない。 

 


でも机に向かうと、どんな話を書くのが正解なのか、そんなことばかり考えてしまう。 

 


そんな日々をここ一カ月ほど過ごしていたのだが、一つ解決策が見つかった。 

それは、

 

 

「何も考えず、プロットすら決めずに、好き放題書く」

 

 

という方法だ。 

 

白いワープロ画面(もしくはノート)に向かい、ただ純粋に、僕が今面白そうだと思った場面を文章として記述する。

例えば、小さい女の子がジャンプして、大男を叩きのめすシーン。その際、女の子の名前も経歴も考えなくていい。男の方も正体不明で構わない。もしくは、詳しく書きたいなら書いてもいい。女の子が奴隷で、男が商人なんてどうだろう。ありきたりかな。それなら大統領でもいい。仙人でもいい。場所はどこだろう。寒い日のことだろうか。屋内? 屋外? どこでもいい。どこまで書いてもいいし、書かなくてもいい。 

言ってしまえば、落書きである。

 


むしろ細かく書きすぎないように注意する。先に言うが、この落書きがプロットになる。あまり細かく書いてこのシーンで満足してはいけない。 

 


ひとつのシーンは早く切り上げ、次にどんな展開になるか、どんな展開が面白いかを妄想する。地球が爆発してもいい。宇宙人を出して面白いなら出してもいい。叩きのめした場所が密室で、そこから逃げなくてはならない、なんて設定にしてもいい。 

 


綺麗にまとめようとか、どうすればウケるかとか、そういう事は後で考える。 話の辻褄も、後で考える。

最初の一回は、とにかく頭が発想した方へ、すらすらと書いていく。そして、話を終わらせたら面白いと思った場所で了マークを打つ。

 

 

この方法を試してから、書くのが楽しくて仕方がない。

もう、時間を見つけたらすぐに机に向かうようになった。頭に連想したものをただ文字に落とす作業が、楽しくて仕方がない。 

 


ただし、あまり長時間は出来ない。頭が疲れる。何だか起きたまま強制的に夢を見ているような感覚で、普段使わない脳の機能を使う。でも、これこそが創作だという感じがする。 

 


※もちろん、一度勢いで書ききった後は、落ち着いて清書する時間が必要だ。

最初の状態では、舞台設定も、人物も、何も固まっていないはず。例えば相手への呼び方だとか、部屋の構成とか、そういうものの整合性をとる。伏線を張ったり、物語のスピードの緩急をつけたりしても良い。

話に無理があったら、人物を増やしたり、減らしたりしてもいい。年代や場所を変更してもいい。ここで、物語として成立させる。世間にウケる内容にしたいなら、ここで内容を変更しても良い。そしてそれが出来たら、正しい日本語の文章に書き下す。 

 

※人によっては、この「清書」の作業が難しいかもしれない。これは、自分の考えを他者に分かるようにする作業で、言うならば課題レポートや文書作成に近い。作業なのだ。しかし、物事を理路整然とさせる作業は、快感を伴ないだろうか? 少なくとも僕にとっては苦ではない。むしろ今までの経験(理系院生や技術職)か活かせる作業だと思う。

 

 

 

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この方法は、森博嗣の本に書いてあった執筆方法を、自分流にアレンジしたものだ。 

 


話を聞いただけでは「ふうん、そんな方法もあるんだ」くらいにしか思わないかもしれないが、 

とにかく僕にとっては、この方法の発明が、大変な前進だった。

 


この方法なら、僕はたくさん書ける。 

これからもずっと書けると思う。

そして、書くのが楽しい。

そういう、前向きな気持ちになった。 

 

 

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これは創作に限った話ではないけれど、人生には、何だかどん詰まりのように感じてしまう時がある。 

 


消化不良というか、周囲の何もかもがつまらなく思えて、生きていること全部が無意味に思える時がある。 

 


確かに、全てはつまらなく、無価値なのかもしれない。でも、それはその瞬間の貴方の感じ方でしかない。 

そして感じ方とは、ボタンのかけ違いのように、ほんの些細なことで変えられるのではないだろうか。 

 

 

僕は、もう小説なんて書けないのではないかと思った。そもそも小説なんて書きたくないのかもしれない。興味がないのかも。書いたって良いことなんて何もない。 

世の中には、そういうネガティブな感情を助長する言葉が蔓延っている。

 

 

でも僕の場合、それは単なるボタンのかけ違いだった。 


僕は今、小説を書くのが楽しい。それが全てだ。 

 

 

「単なるちょっとした掛け違いかもしれない」 

そう楽観的に考えて、色々と試す事こそが、最も重要なのかもしれない。

 

 

 

【生き方】『生きる意味』は元々設定されていない(サルトル)

 

前記事から二ヵ月経ったので現状報告。 

結婚して5ヵ月が経った。 

ささやかな結婚式も終わり、いわゆる日常が始まろうとしている。 

 


で、ここ数週間、僕の気分は浮き沈みを繰り返している。 

過去の生活から比べれば天国そのものなのだが、もはや「暗い気分」というものは悪い癖のようなもので、しつこく付いて回る。 

これが時間経過で収まるのかどうか分からないが、つらつらと考えていることを書こう。 

 

 

 

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最近、『生きる意味』を求めて哲学の入門書を読んでいた。 

 


『生きる意味』という言葉はかなり曖昧だが、僕の求めているものは、

 


「漠然と生きるのではなく、何かに向けて、目標を持って生きた方が楽しいのではないか。その『何か』は生来的に決まっているのか。その『何か』とは何か」

 


という事だ。 

 


少なくとも僕は、仕事を生きがいにする生き方は辞めた(忙しく専門的な仕事から、余裕があり替えがきく仕事に転職した)。 

 


家庭に関しても、傲慢な言い方ではあるが、大きな問題が起きず大人しく定年まで働いていれば金銭的に困ることはないと思う。 

 


要するに、漫然と生きていられる状態になったからこそ、新たに『生きる目標』を設定したくなったのだと言える。 

 

 

 

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哲学の入門書をざっくり読んで分かったこととして、一言で言うと、 

 


「生きる意味について、哲学史においても、絶対的な答えは出ていない」という事が分かった。

様々な説が提唱されているが、どれも一説に留まっているようだ。 

 


いくつかの説の中で最も印象に残ったのは、サルトルの説だ。

 


曰く、

「人間は、何か意味を持って生まれるのではない。まず、事実として、人間はこの世に生まれ落ちる。その時点で生きることに意味はない。生きる意味があるとすれば、それは生まれた後にそれぞれ探して見つけるべきものだ」*1

とのこと。 

 

 

 

サルトルという哲学者は『実存主義』という主義を抱えていて、ざっくり言えば

「神や意味について考えるのではなく、今目の前にあるこの世界や現実(実存)について深く考えるべきだ」 

という考えの持ち主だ。 

 


またサルトル無神論者(無神論的)であった。 

神の不在を証明しようとした訳ではないが、少なくとも「神は人間に対して大きく作用しない」と考えていた。 

 


これらを合わせて考えた時に、上記のように、「意味の前に、まず在るのだ」

という考えに至ったのだろう。 

 


これは言い換えると、

「我々は、『人間だから〇〇すべき』『女だから〇〇すべき』『こんな環境で生まれから〇〇すべき』といった制限は無い」 

とも言える。 

 


更にサルトルは、 

「とはいえ、生きる意味がないままでいると人間は『不安』になる。だから、生まれた後に生きる意味を探すべきだ」 

と語っている。 

 

 

 

※とはいえ上述の通り、このサルトルの主張も『とある一説』に過ぎない。

 

 

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僕はこのサルトルの言葉を初めて読んだ時、悲観的に捉えた。 

 


「元々生きる意味なんてなかったんだ」と考え、では死んでもいいのではないかと思った。 

 


しかしこの落胆から、自身の逃げにも気付からされた。 

つまり、哲学者に定義された『生きる意味』を探す行為は、自ら操り人形になりにいくようなもので、自分の人生を生きているとは言えない、という反省だ。 

 


それを踏まえて、サルトルの言葉を楽観的に解釈すると、

 


「好きなように生きていい。人生の方針は、自由に決めていい」

 


ということになる。 

いずれにせよ僕は、自分がどういう方針で生きるかを、自分で決めなければならないらしい。

 

 

 

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今日はここまで。 


答えは全く出ていないけれど、生活に対する感じ方は少し変わったような気がする。  

 

何も考えず生きるのも悪くない。悪い生き方というものは存在しない。 

ただ幸福と不幸があるだけだ。その因果を自身の中に見つけなくてはならない。

 

 

*1:「実存は本質に先立つ」

【仕事】「メーカーの研究開発職」から「某県庁公務員(事務系)」への転職のモデルケースとして

 

今日は、転職して3ヶ月経った今の雑感を書こうと思う。 


「メーカーの研究開発職(技術職)」から「某県庁公務員(文系職)」への転職のモデルケースとして。

 


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先に結果だけ書くと以下のようになる。 

 


・仕事の負荷が格段に減った(忙しい職場もあるあらしいが)。 

・公務員はやはり、良くも悪くもルール重視である。 

 


言うまでもなく、今の職場のみに対しての意見なのであまり大きく捉えないように。

 

 

 

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具体的に、何がどう変わったのか見ていこう。

 

 

何より変わったのは、前の職場が極端に忙しかった(難しかった)が、今の職場が極端に楽だという点だ。

 


まず前の職場(某メーカーの研究開発職)は、忙しいし、難易度が高かった。 

企画課や生産現場から「こういう商品(機械)が欲しいので、作ってほしい」 (例えば、「柔らかい物を1秒間に1個のペースで持ち上げるもの」)

と言われて、それを何人かで考えて、作る仕事。  

今までに無いものを作る仕事なので、例えば「三本指のロボットでいけるか?」と考えて作ってみて、結果失敗、なんてこともよくあった。 

どこかに正解が書いてある訳ではないので、とても頭を使うし、真面目にやっても成功するか分からないので、緊張しっぱなしだった。 

人によっては、これにやりがいを感じるだろう。 

 

 

 

今の職場(某役所の事務仕事)は逆で、忙しくないし、関連法律さえ理解していれば難しくはない。 

何かしら問題が起きている案件(例えば、「ある地区の住人が立ち退きに反対している」「税金についてクレームが来ている」等)が渡され、それを法律に則って対応していく仕事。 

こうした案件は、途中の進め方(例えば住人に対する具体的な話し方)に多少のオリジナリティを持つことは出来るが、最終的な処理内容は法律に全て則るしかないので、自己判断の余地はなく、大きな失敗はない。 

正解がはっきり文書で明示されているので、覚えてしまえば頭を使う機会は少ないし、失敗もありえず、緊張する場面はない。 仕事にかかる時間も大体予想できる。

人によっては、これを退屈と感じるだろう。

 

 

 

※説明のために「ロボット」「クレーム」といった言葉を用いたが、これは単なる例であり、実際に僕が業務でロボットやクレームに触れることはない。

 


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二つの仕事の具体的な違いは分かって頂けただろうか。 

これらをどう感じるか、どちらの方が合っているかは人それぞれだ。 

 


前の職場は、離職者もそれなりに居たが、心底仕事を楽しんでいる者も多かった。 

忙しくはあったが、クリエイティブな仕事だし、やりがいはあった。 

僕自身も、徹夜で装置を作り上げて大きな実績(会社の利益)に貢献した時は、達成感を得られた。誤解を恐れずに言うが、「がむしゃらに働くこと」を望んでいる人間も多少は存在するのだ。  

 


ただ僕は、それよりも「睡眠時間を確保できること」「確かな休日があり、恋人・妻と過ごせること」「家事や趣味に気を向けられること」を選んだ。それだけの話だ。 

 


僕は理工系の院卒なので、経歴を使わないという意味では勿体ないという気持ちもあった。生涯賃金も下がっただろう(残業代、出張代を差し引けばどちらが得か分からないが)。  

 


しかし、三ヶ月か経った今、後悔は特にない。 

定時で帰れること、仕事で無理を言われないこと、住みたい町で暮らせることが本当に嬉しい。 

これが今の僕の偽りない心情である。 

 


ただ公務員の常として、ローテーションと称して数年で異動となるので、今の状況がいつまでも続くとは思えない。 

 

だが、それも含めて大きな不安はない。

これほど心穏やかに過ごせている日々は、人生で初めてである。

 


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※最後に、話は変わるが、「県庁の業務」にはどのような種類があるのかをざっくり書いておこう。 

 


県庁の勤務地は大きく分けて二つ、「本庁勤め」と「それ以外」がある。 

 


「本庁」とは○○県庁という建物そのもののことだ。ここに勤めている人間は、多くの方が想像する通り、その県全体を運営するための仕事(条例の草案を作ったり、大きな建設・イベントの運営など)を行なっている。  

一般的に、本庁での仕事は組織の中枢を担うものであり、忙しい傾向にある。 

※とはいえ今のご時世、サービス残業はあまり聞かない。

 

 

 

一方「それ以外」とは、県庁以外の県の施設(県の税事務所、県立高校、浄水場、県立動物園や美術館、その他)で働く仕事のこと。 

県庁よりも現場に近い仕事であり、忙しくない場合が多い。また、ルーティーンの中で行うような業務が多い。 

 


誤解を恐れずに書くと、本庁勤めの方が、一般的に「エリート」と言われるような仕事だ。つまり民間で言うところの本庁のようなもの。 

 

ただ本庁とその他は完全に分かれているわけではなく、例えば数年「その他」で働いた後に本庁に行ったり、本庁で働いてからその他に行ったり、それらを繰り返すこともある。 

 

こうした動きは、上層部のポジティブな思惑があるのか、ネガティブな思惑があるのか、それとも単なる人数の整理なのか、色々なケースがあり一概には言えない。 

 

ただ一般的に、大卒や院卒の枠で入った者は、最終的に本庁勤めとなることが多いようだ。 

 

 

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長々書いたが、僕個人としては、人生は大きく好転した。転職して良かったと思っている。 

 


しかし貴方は僕ではない。転職の時期も違う。 

貴方がどうなるかの保証は僕には出来ない。 

よく考えて決断して頂きたい。どんなに考えても結論は出ないしリスクを負うしかないのだが、 

将来について真剣に考えた時間は、決して無駄にはならない。 

 

【演劇感想】『誰も寝てはならぬ』(feblaboプロデュース)

◾️『誰も寝てはならぬ

(feblaboプロデュース)

 

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「演劇を完成するまで帰れません」 

近未来、演劇がとうの昔に廃れた世界。

実験と称し、廃劇場に閉じ込められた素人7人が、演劇の練習を強要させられる。

果たして彼らは演劇を完成させられるのか?

コメディ調メタ演劇。

 

 

 

 

◾️感想
全体の出来としては、偉そうなことを言えば「まあまあ」なのだけど、ラストのオチは好み。こういうの見るために小劇場来てる。

終盤までの芝居ががった芝居とコメディシーンは凡庸だが、それをここであまり求めるのは酷だろうか。 

 


大オチがある物語なのでミステリオタクの立場から読むと、ラストに至る伏線が少なすぎると言える。  

 

メタ演劇ですよと明言する始まりは良いとしても、「演じることに対する違和感、照れ、葛藤」といったシーンをもっと入れてほしい。登場人物がそういう「演技の違和感」を覚えるシーンがあれば、観客も観劇中に「演じること」について考える時間を持てたのではないだろうか。 

 

別の言い方をすると、劇中で彼らは芝居の稽古をする訳だが、その稽古の具体的な進捗や成長が描かれていない点が問題であるように思う。彼らが「演じることを受け入れる(理解する)」シーンがあってこそ、演技と本音の境目が曖昧になるあのラストシーンが映えるのではないか。 

本劇は70分と短い訳だし、もっと時間を割いて彼らの成長(演技の自覚)を描くべきだったと思う。言わずもがな、そういったシナリオを書くのは難しいだろうが。 

 


もしもそうではなく、伏線ゼロの唐突なラストにするのであれば、

何も勘ぐられずに楽しめるように、各コメディシーンはもっと気を使って自然にするべきだろう。しかし、各シーンを違和感なく(ストレスなく)笑って見させるには、世界観があまりにも異質であり難しい。こちらのシナリオも相当難しいと言わざるをえない。

 


他の点。

世界観の説明は、最後まであまりきちんとなされなかった。「演劇という文化が消え失せた近未来」との事だったが、”演劇”という言葉が知られてない程に異世界なのに、仕事やバイト代などはやたらとリアル。深く考えると成立してないように思う。まあ、これで流してしまえるのは演劇のメリットかもしれない。

 


役者さんの演技、演出に関しては特にコメントなし。途中、場面切り替えの暗転と見せかけて、暗いまま夜間のセリフが流れるシーンがあり、あそこは面白かった。 

 

 

 

長々書いたが、やろうとしていること(オチの種類)はかなり好みのタイプで、楽しめた。役者さん達も難しい役に挑戦していたと思う。 

 

この劇団の物はまた見ようと思う。目指している物が面白い以上、いつかは大傑作を作りあげることになるだろう、と思うからだ。今後に大いに期待できる。

 

 

 

 

 

 

 

【演劇感想】『自己紹介読本』(城山羊の会)

◾️演劇『自己紹介読本』

(城山羊の会)

2018年4月17日

 

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駅前の噴水前で待ち合わせをする人々が、意味もなく話を始め、意味もなく相手の人生に干渉し……というブラックコメディ。

 

笑えるけど本当に気まずい。

恋愛、結婚、妊娠、中絶、精神病の全てを茶化しながら「なんで見ず知らずのアンタにそんなこと言われなきゃいけないの?」という気まずさだけで90分もたせたお話。

人間社会ががいかに無意味か、表層的かを見せつけられる恐ろしい演劇。

 


観ててイライラしながらも、何度か声出して笑ってしまった。人間がいかに下品で、自己中心的で、野次馬根性と性欲に溢れているかよく分かる。人間社会がとても無意味で、表層的であるかのように思わされる。まあ実際には、この演劇が表層的な(面を殊更強調している)だけなのだろうが。 

 

 

僕はこの劇団が好きで何度か観に行ってるのだが、毎回かなり似通っていて、「性欲と下世話な好奇心だけの本性が曝け出されていく」というテーマになっている。 

もちろんそれを成立させるだけの演出と演技は素晴らしいものだ、という前提はあるにして、 

はたしてこれらの物語はどれだけ現実的か?(現在を表しているか?)と考えてみる。 

 

そう冷静に考えると、やはり非現実的で、人間のある一部分だけをむやみに拡大しているような歪さを感じる。 

これはもちろん、「愛こそ全て」というような、人間の明るい面だけを拡大したありきたりな物語群へのカウンターなのだろうが、それにしては演劇として完成されすぎていて説得力が強いのが恐ろしい。 

 

とはいえ、上記のような「ありきたりな物語」がそれほど今や世界に蔓延っているとは思えないし、そういう意味では今このカウンターをやること自体にあまり意味はなく、単なる露悪趣味として(これが事実の部分拡大だと大いに理解した上で)観るべきなのだろうか。 

 

だとすれば、かなりの精神強者向けの物語ということになる。 

 

僕は、その間の中途半端な位置から観ることしかできなかった。

何にせよ演出・演技力を楽しむためだけにでもお金と時間を使う価値があるので、また次回も見ることにする。

 

 

 

 

 

 

 

【日記】 結婚は人生や人格の保証にはならない

2か月空いたのでブログを書こうと思う。


入籍した。

前回まで、親との確執の話をさんざん書いたが、もう連絡を絶ったので、そちらでは何の進展もない。
連絡を絶ったまま入籍し、名前を変え、仕事も変え、住居も変えている。


とにかく忙しい。
ライフラインの契約や、住居の契約、荷物の運び出しなどで毎日てんてこ舞いだ。
嬉しいとか、寂しいとか、そういうことを考える暇すらない。
毎日ひたすら作業をしている。  

 

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