創作における台詞の話。
『ミツコ感覚』という映画を見たのだが、映画内のセリフがあまりにもリアルで驚いた。
言わされている感じが全くなく、役者とも合っていて、不気味な程だった。
この脚本を書いた人間が実在する、ということが信じられない程のリアリティだった。
で、映画情報サイトOUTSIDE IN TOKYOに監督・脚本の山内ケンジさんのインタビューが載っていて、そこでこんな話をしていた。
山内:そうですね、作者が、プロットがあるとそこへ持っていくために強引に会話を、無理をさせて、そこへ持っていくから、そういう時ってしらけちゃうんだけど、その会話自体が成立していて、それを積み重ねていくと妙な変な柱へ向かっていくいうか、そういう書き方の方がどう考えても自然な流れに会話としてなるのでね、そういうのが多いです。
つまり、プロットよりも会話の自然さを優先している、ということだ。
しかしそれで物語の展開は大丈夫なのか? というと、
山内:(略)つまり箱書きとかプロットをしっかりといつも書かないで書くんですよ。(略)まず先が読めなくて書き出しちゃうんですよ、後でもちろん修正するんだけど、だから半分くらい書いてやっと残りが見えてくる、だから前半はものすごい時間かかるんです。そうやって書いてくもんだから、普通ならこういくはずなのが、違う方へ途中で行ってるみたいな。
というように、プロットは後から完成させるらしい。
第一義が「自然な会話」ということなのだ。
山内:いや、破綻する場合も今まであるんですけどね。でも最近、案外上手くまとめられるようになってきたっていうか、まあ後で修正しますけどね。
プロットの邪魔をしない会話を作ることに技量が要るように、自然な会話を邪魔しないプロットを書くこともまた技量が要るらしい。
しかし、不可能ではないのだ。
僕がこの映画を観て真に驚いた点はそこである。
人は、これだけリアリティのある会話を創造することができて、またそれに耐えうるプロットを書くことが出来るのだ。
僕がハナから諦めていたことを実現している人がいる。そのことに心底驚いた。
(※とはいえ『ミツコ感覚』のストーリーは相当に特殊で、「こんなのプロットが破綻しているよ」という意見も多々あるだろうと思う)
ちなみにこの話は、16日前の記事(「物語の自然な流れ」を、人為的に作る楽しさ)とは真逆の話である。
僕はそもそもプロット先行で話を考えるのが好きだ。楽しいと思う。
そして、そのやり方が間違っているとも想っていない。
前書いたとおり、作品の作り方というのは「ジャガイモを洋風に調理するか和風に調理するか」といったようなもので、要するに趣味の問題だと思うからだ。
しかし今回、僕は「会話の自然さ先行」の作品の奥深さを見た。
無理かもしれないけど、こういう作品が一度作れれば、それもとても魅力的なことだと思う。
---
予想だが、そういう魅力を持つ作品は演劇に多いと思われる。
というのは、演劇はその構成上、当て書き(演者を決めてからその人に合うように台本を書くこと)が非常に容易だからだ。
だから、「自然な会話」を求めて、今後は演劇も観ていこうと思う。
またやるべきことが増えた。忙しくなる。
※関連記事
【小説談義】 「物語の自然な流れ」を、人為的に作る楽しさ - けんぴの灰色マインドマップ日記