kenpi20の灰色マインドマップ日記

都内で暮らす会社員のライフログ、現状把握、自己分析

【小説談義】 「物語の自然な流れ」を、人為的に作る楽しさ

 

今日は大学もバイトも無かったので、朝から趣味の小説を書いていた。

 

小説を書くのは楽しい。日記や評論とは全く違った楽しさがある。

その楽しさには色々な要素があるが、今日はその中でも、

「自然さを追求する」

という点についてお話したい。

 

 

例えば、である。

若い男女二人が、雑談をしながら歩いているシーンを書くとしよう。

そのシーンにおいて、今後の展開の伏線とするため、「女性が食いしん坊であること」と「男性が頭痛持ちであること」を読者に述べておきたいとする。

 

その場合、まずは以下のような文章が想定される。

 

 

(例①)

俺はA子と歩いている。彼女は言った。

「そういえば私、食いしん坊なんですよ」

「そうなんだ。俺は頭痛持ちだよ」

俺達は笑った。

 

 

 

不自然極まりない。
日本語としては間違っていないが、自然な流れで構成されていない。

そのため、以下のように書きなおしてみよう。

 

 

(例②)

俺はA子と歩いている。じりじりと日が照っている。

 「暑いね」

 「ね」

 彼女は鬱陶しそうに返事をする。

 「こんだけ暑いと、食欲も出ないね」

 「そう?」

 彼女は何でもないことのように言った。

 「A子さん、夏バテとかしないの?」

 「夏バテはするけど……食欲は、別に、減らない」

 「ふうん……昨日の夜は何食べたの?」

 「シチュー」

 「うわあ。考えただけで暑くなる」

  実際に暑いのだが。

 「一昨日は味噌ラーメン」

 「おお……」

「その前はとんかつ」

 「そんなものばかり……というか、一昨日の献立なんか、よく覚えてるね」

 「そう? 好きなことは覚えていられるでしょう。あなただって、バッグの中にいくつ頭痛薬が残ってるか、いつも覚えているじゃない」

 「覚えているけど……」

  それとこれとは話が別だ。別に僕は好きで頭痛持ちをやっている訳ではない。そう言おうとしたが、暑くてたまらないので、何だかどうでも良くなった。

 

 

かなり冗長だが、会話の流れは自然だし、2つの伏線を張っていることはかなり分かりづらくなった気がする。

副産物(?)として、「女性側が少し変わった考え方をする」「男性が若干面倒くさがり」「二人はそれほど仲が悪くはない」などという点が描写された。

これらがいわゆる「小説の偶然性」であり、この非論理的な部分ももちろん執筆の面白さだ。

 

もしこの続きを書くのであれば、これらの点も加味して、「自然な流れ」を作っていかなくてはならない。

つまり、「自然な流れ」というものは、本編が長くなればなるほど難しくなっていくのだ。

その中で、自然な流れを守りつつ、上手く「到達すべきラスト」まで物語を進行(誘導)させなくてはいけない。

 

そのために、伏線を述べる順番を考え、場合によっては時代設定や人物設定も再設定しなおしたりする。

当然だが、小説というのは人工物であり、その人工物をいかに自然に見せるかは、作者の力量によるところなのだ。

 

 

この試行錯誤が面白い。

 

正解の定められていないジクソーパズルを嵌めていくような快感、と言ったらいいだろうか。

ピースが嵌まり、矛盾なく物語が進行したとき、僕は喜びを感じる。

 

 

 

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この考え方は、おそらく一部の物書きには否定されるだろう。

「小説は作為的に書かれるべきでなく、あくまで自然に、偶然に書かれるべきだ。定められた結末まで誘導するなど言語道断」

という、ヌーヴェルバーグ的な思想も、もちろんあるだろう。

 

しかし僕は実際にそれが楽しいし、自然性が作為的に作られた作品が全て駄作だとは思えない。

この議論は、ジャガイモを洋風に調理するか和風に調理するかというような、単なる趣味の問題ではないかと思っている。

 

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長々と書いたが、おそらくこの記事に納得してくれる方は殆ど居ないと思われる。

でも、実際に僕がこう感じているのだから、同じことを感じる方もどこかに居るのではないだろうか。

 

僕が言いたいのは、小説を書くのは面白いですよ、ということだ。