今日は大学もバイトも無かったので、朝から趣味の小説を書いていた。
小説を書くのは楽しい。日記や評論とは全く違った楽しさがある。
その楽しさには色々な要素があるが、今日はその中でも、
「自然さを追求する」
という点についてお話したい。
例えば、である。
若い男女二人が、雑談をしながら歩いているシーンを書くとしよう。
そのシーンにおいて、今後の展開の伏線とするため、「女性が食いしん坊であること」と「男性が頭痛持ちであること」を読者に述べておきたいとする。
その場合、まずは以下のような文章が想定される。
(例①)
俺はA子と歩いている。彼女は言った。
「そういえば私、食いしん坊なんですよ」
「そうなんだ。俺は頭痛持ちだよ」
俺達は笑った。
不自然極まりない。
日本語としては間違っていないが、自然な流れで構成されていない。
そのため、以下のように書きなおしてみよう。
(例②)
俺はA子と歩いている。じりじりと日が照っている。
「暑いね」
「ね」
彼女は鬱陶しそうに返事をする。
「こんだけ暑いと、食欲も出ないね」
「そう?」
彼女は何でもないことのように言った。
「A子さん、夏バテとかしないの?」
「夏バテはするけど……食欲は、別に、減らない」
「ふうん……昨日の夜は何食べたの?」
「シチュー」
「うわあ。考えただけで暑くなる」
実際に暑いのだが。
「一昨日は味噌ラーメン」
「おお……」
「その前はとんかつ」
「そんなものばかり……というか、一昨日の献立なんか、よく覚えてるね」
「そう? 好きなことは覚えていられるでしょう。あなただって、バッグの中にいくつ頭痛薬が残ってるか、いつも覚えているじゃない」
「覚えているけど……」
それとこれとは話が別だ。別に僕は好きで頭痛持ちをやっている訳ではない。そう言おうとしたが、暑くてたまらないので、何だかどうでも良くなった。
かなり冗長だが、会話の流れは自然だし、2つの伏線を張っていることはかなり分かりづらくなった気がする。
副産物(?)として、「女性側が少し変わった考え方をする」「男性が若干面倒くさがり」「二人はそれほど仲が悪くはない」などという点が描写された。
これらがいわゆる「小説の偶然性」であり、この非論理的な部分ももちろん執筆の面白さだ。
もしこの続きを書くのであれば、これらの点も加味して、「自然な流れ」を作っていかなくてはならない。
つまり、「自然な流れ」というものは、本編が長くなればなるほど難しくなっていくのだ。
その中で、自然な流れを守りつつ、上手く「到達すべきラスト」まで物語を進行(誘導)させなくてはいけない。
そのために、伏線を述べる順番を考え、場合によっては時代設定や人物設定も再設定しなおしたりする。
当然だが、小説というのは人工物であり、その人工物をいかに自然に見せるかは、作者の力量によるところなのだ。
この試行錯誤が面白い。
正解の定められていないジクソーパズルを嵌めていくような快感、と言ったらいいだろうか。
ピースが嵌まり、矛盾なく物語が進行したとき、僕は喜びを感じる。
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この考え方は、おそらく一部の物書きには否定されるだろう。
「小説は作為的に書かれるべきでなく、あくまで自然に、偶然に書かれるべきだ。定められた結末まで誘導するなど言語道断」
という、ヌーヴェルバーグ的な思想も、もちろんあるだろう。
しかし僕は実際にそれが楽しいし、自然性が作為的に作られた作品が全て駄作だとは思えない。
この議論は、ジャガイモを洋風に調理するか和風に調理するかというような、単なる趣味の問題ではないかと思っている。
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長々と書いたが、おそらくこの記事に納得してくれる方は殆ど居ないと思われる。
でも、実際に僕がこう感じているのだから、同じことを感じる方もどこかに居るのではないだろうか。
僕が言いたいのは、小説を書くのは面白いですよ、ということだ。