kenpi20の灰色マインドマップ日記

都内で暮らす会社員のライフログ、現状把握、自己分析

【生き方】『生きる意味』は元々設定されていない(サルトル)

 

前記事から二ヵ月経ったので現状報告。 

結婚して5ヵ月が経った。 

ささやかな結婚式も終わり、いわゆる日常が始まろうとしている。 

 


で、ここ数週間、僕の気分は浮き沈みを繰り返している。 

過去の生活から比べれば天国そのものなのだが、もはや「暗い気分」というものは悪い癖のようなもので、しつこく付いて回る。 

これが時間経過で収まるのかどうか分からないが、つらつらと考えていることを書こう。 

 

 

 

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最近、『生きる意味』を求めて哲学の入門書を読んでいた。 

 


『生きる意味』という言葉はかなり曖昧だが、僕の求めているものは、

 


「漠然と生きるのではなく、何かに向けて、目標を持って生きた方が楽しいのではないか。その『何か』は生来的に決まっているのか。その『何か』とは何か」

 


という事だ。 

 


少なくとも僕は、仕事を生きがいにする生き方は辞めた(忙しく専門的な仕事から、余裕があり替えがきく仕事に転職した)。 

 


家庭に関しても、傲慢な言い方ではあるが、大きな問題が起きず大人しく定年まで働いていれば金銭的に困ることはないと思う。 

 


要するに、漫然と生きていられる状態になったからこそ、新たに『生きる目標』を設定したくなったのだと言える。 

 

 

 

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哲学の入門書をざっくり読んで分かったこととして、一言で言うと、 

 


「生きる意味について、哲学史においても、絶対的な答えは出ていない」という事が分かった。

様々な説が提唱されているが、どれも一説に留まっているようだ。 

 


いくつかの説の中で最も印象に残ったのは、サルトルの説だ。

 


曰く、

「人間は、何か意味を持って生まれるのではない。まず、事実として、人間はこの世に生まれ落ちる。その時点で生きることに意味はない。生きる意味があるとすれば、それは生まれた後にそれぞれ探して見つけるべきものだ」*1

とのこと。 

 

 

 

サルトルという哲学者は『実存主義』という主義を抱えていて、ざっくり言えば

「神や意味について考えるのではなく、今目の前にあるこの世界や現実(実存)について深く考えるべきだ」 

という考えの持ち主だ。 

 


またサルトル無神論者(無神論的)であった。 

神の不在を証明しようとした訳ではないが、少なくとも「神は人間に対して大きく作用しない」と考えていた。 

 


これらを合わせて考えた時に、上記のように、「意味の前に、まず在るのだ」

という考えに至ったのだろう。 

 


これは言い換えると、

「我々は、『人間だから〇〇すべき』『女だから〇〇すべき』『こんな環境で生まれから〇〇すべき』といった制限は無い」 

とも言える。 

 


更にサルトルは、 

「とはいえ、生きる意味がないままでいると人間は『不安』になる。だから、生まれた後に生きる意味を探すべきだ」 

と語っている。 

 

 

 

※とはいえ上述の通り、このサルトルの主張も『とある一説』に過ぎない。

 

 

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僕はこのサルトルの言葉を初めて読んだ時、悲観的に捉えた。 

 


「元々生きる意味なんてなかったんだ」と考え、では死んでもいいのではないかと思った。 

 


しかしこの落胆から、自身の逃げにも気付からされた。 

つまり、哲学者に定義された『生きる意味』を探す行為は、自ら操り人形になりにいくようなもので、自分の人生を生きているとは言えない、という反省だ。 

 


それを踏まえて、サルトルの言葉を楽観的に解釈すると、

 


「好きなように生きていい。人生の方針は、自由に決めていい」

 


ということになる。 

いずれにせよ僕は、自分がどういう方針で生きるかを、自分で決めなければならないらしい。

 

 

 

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今日はここまで。 


答えは全く出ていないけれど、生活に対する感じ方は少し変わったような気がする。  

 

何も考えず生きるのも悪くない。悪い生き方というものは存在しない。 

ただ幸福と不幸があるだけだ。その因果を自身の中に見つけなくてはならない。

 

 

*1:「実存は本質に先立つ」