昨日、久しぶりにサブカル系(?)の友人と飲んだのだけど、
その時に、知名度というものについて考えさせられたので、その話。
彼らは、僕があまり詳しくない分野に精通していて、話を聞いているのが面白かった。
具体的には、
- アニメの作画監督(の個性)について
- 近年の成年漫画の風潮について
等といった話題だ。
話の中には、その筋では有名な作画監督や成年漫画家の名前がたくさん出てきた。
しかし失礼ながら、僕はその人達の名前を全く知らなかった。
僕はその、知名度の高低差について、色々と考えさせられた。
まず、その作画監督や成年漫画家たちは、自分の知名度をどう思っているのだろうか?
同業者やその界隈のマニア達とよく会話する性格であれば、自分が認知されていることに気づくだろう。
しかし、一人で黙々と作業するタイプであれば、自分が本当の意味で有名かどうか(例えば、飲みの席で話題になるか)なんて分からない。
ネットのヒット件数なんてものも、当然役には立たない。*1
逆に言えば、同業者とばかり話している人は、自分の知名度を逆に高く見積もってしまうかもしれない。
つまり、知名度という指標は、とてつもなく曖昧で、主観を通してしか観測できないということだ。
「有名になりたい」「ちやほやされたい」「ビッグになりたい」等という具体性のない夢を持っている人は、そのことをきちんと自覚した方がいいだろう。
前述の作画監督や成年漫画家が本当に凄い人なのだとすれば、それは有名だからではなく、実力があるからだ。
---
で、ここからは別の話。
やはり、最終目標に他人に依存した概念*2を設定するのは、無意味だと思う。
そんなものは自分の思い込み次第であり、つまり幻想だからだ。
ノーベル賞を採った人間も、他国の無教養な集団においては有名ではないだろう。
かたや、訳の分からない文章をネットに書いて、仲間内で満足している人間も居る。*3
そのことに気付いてしまえば、こんなに虚しいことはない、と思えるだろう。
だから、やはり大事なのは、「自分が」納得できるような行動を行うということだ。
その行動は、研究でも、創作でも、芸術でも、消費でも、仕事でも、恋愛でも何でもいいのだけど、
要は周囲の目ではなく、自分の感性に愚直であるほうが幸福になれると思う。
カーボンナノチューブを発見した化学者・飯島澄男は、数多の授賞式よりも、歴史的発見をした日の研究所からの帰り道が一番幸福を感じたと語っている。
拍手も歓声もない帰り道、彼はどれだけ幸福だっただろう。
目標とすべきなのは、こうした時間ではないだろうか。