この偉大な小説について、僕の拙い文章力で何かを述べることは難しいのだけど、ひとまず一番言いたいことを冒頭で述べておく。
『闘争領域の拡大』は素晴らしい小説である。
貴方の好みに合うかに関わらず、必ず貴方の中に何かを残していく。だから、一度はお読みになることをおすすめする。
以下、感想。
1.あらすじ、およびプロットについて
まず、これは作中で(!)作者はこう明言している。
僕の話は、緻密な心理描写で読者を魅了するという類のものではない。僕には技巧やユーモアで読者を感心させてやろうなんて野心はない
これはその通りで、この小説のプロットとしては異常すぎるほど単純だ。
主人公は30歳のフランス人プログラマ。仕事もプライベートもそこそこ上手く(むしろ上手すぎるくらいに)やっているが、そんな人生に虚無感を感じている。
淡々と仕事をこなしていく中で不細工な同僚と出会い、恋愛という闘争において常に敗者である彼(しかしそれでも闘争を諦めない彼)を見て……という話だ。
この単純なプロットの間に、作者の物とも主人公の物ともつかない独白が挿入されている。
この手法は、"技巧やユーモア"に重きをおく読者(つまり僕のことだ)にとっては不満に思うしれないが、
「物語に乗せて哲学を述べる」ための手法としては、かなり強力だと言える。
言いたいことをシンプルに言葉にできるなら、シンプルなほうがいい。
2.この本で描かれる哲学について
本題である。
この小説では、「人生」と「愛」と「性的行動」についての哲学が述べられる。
いくつか本文から引用しよう。
性的行動はひとつの社会階級システムである
愛はどうあれ存在している。その結果が観測できるから
今一度、思い出してみて欲しい。あなたが闘争の領域に飛び込んだ時のことを。
本書のいう『闘争領域』とは、資本主義に基づいたこの闘争社会のことだ。仕事、友人関係、そして性的行動、その全てが闘争の取り分として賄われる世界。負ければ全てを失う世界。争わなければ何も得られない世界。
若かりし頃、主人公は、僕らは、闘争を夢見ていた。今より大きなものが得られると信じていた。それにより幸福が訪れると信じていた。
しかしいずれ、予想に反する3つの事実に気付く。
絶対に勝てない闘争があること。
勝てたとしても、闘争領域はどんどん拡大するということ。
そして、闘争からは逃れられないということ。
実のところ、主人公は「勝てない闘争」に直面して悩んでいる訳ではない。実際問題として彼は「ある程度の勝者」であり、しかも才能も持っている。勝つべくして勝っている。
彼は負け惜しみをいう立場ではない。
しかし友達はいない。
彼は闘争に勝ち残っているが、幸福ではない。
彼がなぜ幸福でないのか。
それは、次の闘争に挑む勇気がないからだ。
闘争はモノを得る「唯一の」手段だ。
「闘争によってしかモノを得られない」という事実そのものが虚しいが、しかしそれでも、闘争領域を拡大しないと幸福にはなれない。
なにをしたところで本当の逃げ道にはならない。次第に、どうしようもない孤独、すべてが空っぽであるという感覚、自分の実在が辛く決定的な破滅に近づいている予感が重なり合い、現実の苦悩に落ち込むことが多くなる。
闘争から逃げることはできないのだ。
さて、では仕事・性的行動ともに満たした主人公が「闘争領域の拡大」によって次に得たいものとは何か。
それは愛である。
愛はどうあれ存在している。その結果が観測できるから。
しかしそれを得ることは悟りに近い。何十年も連れ添った老夫婦の間に芽生える、奇跡のような産物だ。ルールに則って暮らしているだけでは、主人公や読者には訪れない。
だから我々の行っている恋愛ごっこ及び性的行動は、狭い世界での闘争の産物でしかなく、つまり社会階級システムでしかない。
そして、それでもまだ、あなたは死にたくないと思っている。
闘争によってしか得られない「性的行動」、闘争領域のさらなる拡大が必須な「愛」、闘争から降りることができない「人生」。
この小説ではこの三点の関係性を描いている。
3.一読者としての個人的立場
ここからは、書評というよりは個人の立場から物を言う。
さて、僕は闘争の中でどの立場に居るだろうか。
正直に書くが、僕は受験および就職活動においては、平均より上に行ったと感じている。
大学(および院)は某有名大学に所属しているから、国内の平均値よりは上だろう。内定先も、(法の定義から言って)大企業に該当する業界トップの企業だ。
入社後の闘争はまだ分からないが、とりあえずこの年齢までの受験・就活闘争では大きなミスは踏んでいない。
他の面はどうか。「性的行動」は、お世辞にも外見が優れているとはいえない(というか不細工だ)が、性的行動の経験はある。
なので、僕は露骨に「敗者」の立場から闘争を憎むようなことはしない。
だが、友達は居ない。幸福を感じない。生きていることが、闘争が、そもそも好きではない。
僕の立場は、主人公と同様、闘争の参加者として「闘争そのもの」を憂う立場にあるのだ。
4.主人公の哀しみの意味
主人公(および僕)が幸福でないのは、次の闘争に挑む勇気がないからと書いた。
大多数の人々は、闘争そのものが好きだ。マネーゲームをしている連中は、金が好きなのではなくゲームが好きなのだと思う。奪うことが好きなのだ。その中にこそ幸福を見出す。
しかし主人公はそうではない。会議は退屈だ。取引先を叩きのめす方法は知っているが、別に楽しくない。金が貯まっても休日にやりたいことはない。
同僚のティスランは主人公とは対照的だ。彼は不細工だから童貞である。性的行動に夢を持っている。だから闘争を諦めない。どれだけ負けても、その先に幸福が待っていると想っている。性的行動には常に「愛」が付随していると信じている。
しかし主人公は違う。愛がそう簡単に手に入らないことを知っている。
「狭い領域の闘争で手に入るのは、狭い領域の闘争で手に入るようなものだけ――」
それを理解してしまったことが、彼の哀しみの土台ではないだろうか。
5.闘争領域は拡大するしかない
しかしこれは単なる悲観的な小説ではない。
愛はどうあれ存在している。その結果が観測できるから
愛はどうやら存在する。しかしそれを実感することは難しい。
我々は知っている。性的行動だけでは愛は確認できない。「愛してる」という言葉でも実証できない。愛はそんな所にはない。最後の聖域だ。
僕らの住んでいる狭い闘争領域には、おそらくない。
若い頃、僕らは両親に守られた「ルールの領域」から「闘争領域」に飛び込んだ。ルールを守っているだけで得られた安心、安全、あらゆる保証を犠牲にして。それらを失うことなんて怖くなかった。その先の領域を信じていた。
もしも今、闘争領域を拡大するのであれば――愛とやらを求めるのであれば――あの時と同じことをしなければならない。この領域で得てきたモノを捨てなければならない。
金、地位、性的行動。これらは尊い。なにせ自分が奪ってきたものだ。
しかしこれらにしがみついている限り、愛は見つからない。
もしかしたら無謀かもしれない。これから飛び込む水は冷たいだろう。対岸はずっとずっと遠く、辿りつけないかもしれない。全てを捨てたところで、愛が見つかる可能性はほぼ無いと言っていい。野たれ死ぬ確率のほうが、多分ずっとずっと高い。
しかし、若い頃の僕らは、そんなことを気にしただろうか?
欲しいものがあった時、自分の持ち物の価値を省みたりしただろうか?
今一度、思い出してみて欲しい。あなたが闘争の領域に飛び込んだ時のことを。
我々は、闘争領域を拡大するしかない。
身の程を超えて拡大しすぎたら、死が訪れるだろう。
しかし闘争領域を拡大しなければ、緩慢な死に飲み込まれるだけだ。
この哀しきチキンレースは死ぬまで続く。