ここ数日は、気分が落ち着いている気がする。
理由はおそらく、大学院での研究が一段落しているからだ。
一段落しているというか、直近の締め切りがないだけなのだが、それだけでかなり気持ちが楽だ。
(まあ、作業をしなくていい訳ではない。ご丁寧に、我が研究室では、大学の夏季休業期間中にも研究室に入れるように全員分の入構申請が強制的になされている。休みなく研究しろという心遣いには頭が下がる)
で、昨日から僕が何をしているかというと、クーラーの聞いた部屋で寝たりネットを見たり本を読んだり映画を見たりしている。
これが結構楽しい。
やはり僕は、やりたいことが無いのではなく、やりたいことが出来ない状況にいたのだなと思う。
で、僕の「やりたいこと」というのが、小説を読んだり映画を見たりということだ。
やりたいことがある、というのは、いいことだと思う。多分。
それを見つけるまでの人生が、ジェットコースターの上りで、見つけた後の人生は、もう勢いに任せて滑り落ちるだけなんじゃないだろうか。
つまり、そんなことを考える程度には、柄にもなくポジティブである、ということだ。
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それに関連して思い出した話。昨日に続いて小説について。
当時親しくしていた作曲が趣味のある友人が、こんな話をしていた。
「俺は自分の歌の歌詞に、死に関する話は入れない。何故なら、物語の中で死を語るのは、死を軽視した行為であり、今まで死んた人や遺された人に対して失礼だからだ」
一見すると彼の主張は正しく思えるが、僕は彼の論に納得できなかった。
というのは、彼の主張は、「彼が物語というものを軽視している」ということを暗に示しているからだ。
つまり、「物語の中で死を語るな」とは、「物語は。死という崇高な概念を語る場所ではない」という意味であり、「物語は(現実の死と比べて)崇高な概念ではない」という意味なのだ。
おそらく彼は本当にそう思っているだろうし、その主観に正否判定はできないから、その場では特に反論はしなかった。
しかし、僕は彼とは異なる考えである。
物語が、死を語ってはいけないほど低俗な概念だとは思わない。
ある物語が人を救ったという事実はいくらでもあるし、逆に『若きウェルテルの悩み』は多くの人を殺した。
「物語」は、良くも悪くもそれだけ(人によっては)重要な概念だと思う。
それこそ、「死」に見劣りしないだけの重要性すら持っている。
僕が今日、気分が穏やかなのも、きっと物語のおかげだ。
人の気分を上向きにさせるものは、それだけで何物にも代えがたい価値がある、と思う。