今日は、「他人にとって大事なもの」の話をしたい。
僕は7月いっぱいでレストランのバイトを辞める。
バイトを辞めると伝えた時、オーナーと社員は、とても悲しそうな、悔しそうな顔をした。
当初、僕はそれが不思議だった。
僕は特に仕事が早い訳ではないし、時給だって他の人と変わらない。
なので、店は、僕の代わりの新人を採ればいいだけの話だ。何の損失も無い。
なのに、どうして僕が辞めるということを悲しそうな顔をするのだろう?
その答えが分かったのは、家に帰って、バイト先のレシピを暗記している時だった。
おそらくオーナー達にとって、あの店はとても大事なものなのだ。
しかし、僕にとってはそうではなかった。
少し嫌な事があったらやめてしまっても良いくらいの場所だった。
その価値感の違いが、オーナーを悲しませたのだと思う。
僕はそれに気付いて、とても心を痛めた。
「価値感の違いによる哀しさ」は、僕にとっても重要な問題だったからだ。
その証拠に、この問題について僕は過去の記事でも何度か言及している。
例えば、『僕が生きる気力が湧かない理由』では、他者との価値感の違いを無視しすぎたことが自分の無気力さに繋がっていると書いた。
『人や物事を大事に思えない』では、自分の価値感が育っていないことを書いたし、『死にたくなる理由の探求①』『僕の恋人と僕Aと僕B』では、価値感が安定しないことを書いた。
全部ひっくるめて言うと、僕は自分の価値感(物事の重大さ)というものをうまく定義できないのである。
そのせいで、他人の価値感に影響を受けすぎ、あるいは無視しすぎたりし、結果、いちいち気分が揺さぶられて、気分が沈む。
僕にとって、人と交流するというのは、そういうことだ。
今回は、他人の価値感に影響を受けすぎたケースである。
オーナーの「この店がとても大事」という価値感を感じとった僕は、
「この人にとって大事なものを、僕が粗雑に扱って良いのだろうか」「僕の価値感は間違っているのではないだろうか」と不安になっているのだ。
ただ、今回のケースでは、頭では「自分の価値感が間違っていない」と分かっている。
何故なら、あの店の体制も、あのオーナーも、客観的に見て決して褒められたものではないからだ。
それにそもそも、オーナーと違って、僕はあの店の所有者ではない。
だから、オーナーと自分の価値感が違って当然なのだ。
分かっている。頭では分かっているのだ。
だが、非常に心が辛い。
オーナーの価値感を蔑ろにすることで、今後すべての他者の価値感を蔑ろにしてしまうような、独りぼっちになってしまうような不安感を感じる。他者すべてを裏切ったような罪悪感に苛まれる。
このような「0か1か」の完璧主義的思考も不健全だと気付いている。
それでも辛いのだ。
分かっていても辛いのだ。
どうやら、思考と感情は同一ではないらしい。
思考に感情が付随してこない。
もしかすると、そもそもこうやって思考整理すること自体が無駄なのだろうかもしれない。
だとすれば、もはや僕が人生を再起することは不可能だということになる。
そうなのかもしれない。
分からない。
先は見えない。
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