昨日書いたとおり、僕は自分からバイトを辞めることに決めた。
これは、それ自体は大した出来事ではないのだけど、
僕の人格形成においては、結構大きな出来事だったのではないかと思う。
というのも、僕は今までの人生で、自分から何かを辞めたことが殆ど無いからだ。
今日はそのことを書こう。
僕は小学校も、中学校も、高校も、そんなに楽しくなかったと記憶している。
でも、結局最後まで辞めなかった。
辞めるのが怖かったからだ。どうなるのか分からなくて、現状維持をしていた。
大学もそうだ。卒業証書を貰うまでずっと耐え忍ぶような生活だった。
ずっとハラハラしていて、卒業式を終えた時に、ホッとした。
大学院はそれよりは楽しいけど、辞めることは検討していない。
学校以外にも、受験も投げ出さなかった(投げ出せなかった)し、部活も(ほぼ幽霊部員だった部もあったが)辞めなかった。
学習塾も予備校もサボれず、嫌なことから逃げるという思考を持つことが出来なかった。
恋人と別れるときも、何かきっかけ(喧嘩など)が起きないと別れ話を切り出せなかった。
こういった思考の根源は、おそらく、「自分から何かを決定してしまうことが怖い」という思想だ。
勝手に退部になるのは良い。退学になってもショックではなかったかもしれない。
でも、自分から辞めるのは怖かった。
自己表現が苦手だ、とも言える。
「僕はこうしたい(これをしたくない)」と言ってしまうと、
発言に責任を持たないといけない気がして、ずっと怖かった。
例によって、毒親にその理由を求めることも出来るだろう。
「自分の意見を主張すると、(その日の気分によって)叱られて人格否定される」という日常は、子供の自己主張を妨げるのに一役買ったかもしれない。
まあ、その影響の大きさは実際のところ分からない。あるのは結果だけだ。
僕は周囲に良い顔をするために、やりたくもない事を続ける行為を繰り返してきた。
しかし今回、僕は自分の意志でバイトを辞めた。
ちょっとした原因はあったけれど、それはバイトを辞める程のことではないし、
真相としては「単に合わないからやめた」というだけのことだ。
実際問題、社員たちは良い顔をしないだろう。
「人を怒らせる」という、僕が最も忌避してきた現象が発生するわけだ。
でも、僕はそれを受け入れた。
それは、僕の中では大きな一歩だと思う。
この経験が無ければ、僕はこれからも何事も辞められず、何事も捨てられずに人の顔色を見て生きていっただろう。
腸をやられて出血しても現状を変えられない僕のことだ、そのまま倒れて死んでいただろう。
もしくは、辞めるのが怖くて、何も始められなかったかもしれない。
そういう人生と決別するという意味で、僕にとっては大きな一歩だったのだ。
僕は自分の意思で、物事を始めたり辞めたりする。それが出来る。
そうやって生きていきたい。
他人が小学校一年生くらいで学ぶようなことを、僕は今、学んでいるのだと感じる。