◾︎生きることに対して虚無感を抱いた時の対処法をまとめたい。(1)
・今覚えている虚無感とは?
「何をしたところで意味はない、すべては無為だ」という感覚。
苦しみと、それを回避するための努力は存在するが、苦しみを回避したところで結局残るのは「無為」(虚無感)だけではないか、という危機感。
・自分の自由意志で決めた「生きる意味」にのみ価値がある
まず、人生(生きること)に意味・使命はあるのかを考える。
僕は創造主が意図して作り出した存在がいるとは思っていないし、仮に創造主が居て、僕に何か意図が託されていたとしても、それが「自分が納得する」意味でなければ意味が無いと思う。
親についても同じで、例えば僕の親は「自分が楽しむために」「何となく」僕を産んだ。
しかし僕は「親を楽しませる」ために生きるのはごめんだ。何故ならうちの親は精神に問題があり、僕を苦しめたから。つまり嫌いだから。
まとめると、僕は自分の自由意志で決めた「生きる意味」にのみ価値があると考えているらしい。
したがって「自分の自由意志で決めた生きる意味」を探しているようだ。言い換えると、自分が何に意味を見出しているか? ということになる。
自分の胸に訊いてみると、ひとまずの答えが出る。
妻の幸福と、娘の幸福。あとは、そのほかの人々の幸福。そして自分の幸福(快楽)。
※これらのバランスは難しい。決して一つに絞ってはいけないと思う。例えば人々のために自分自身を投げ出すと不幸になるし、自分自身のために人々を蔑ろにすると、不幸になる(気がする)。
・自分にとっての『意味の大きさ』は、精神状態に左右される。
自分にとっての生きる意味(目的)は
「妻の幸福と、娘の幸福。あとは、そのほかの人々の幸福。そして自分の幸福(快楽)」
と書いた。
しかし、落ち込んでいる時、これらすべてが「別に大事じゃない」ように思える。
これはもう理屈じゃない。これらを切望する気持ちが、風船のようにしぼんでいく。
妻のことも、娘のことも、自分のことも、人々のことも、本当はどうでもいいことなんじゃないか? という気持ちになる。
そうなってしまうと、残るのは生活の苦痛だけだ。
仕事の苦しみ、家事の苦しみ、肉体の苦しみ……。これらに抗う理由がなくなってしまう。
死にたくなる。
・気持ちが健康的なときの自分が正しいのか?
この問題の厄介なところは、本当にすべてが大事じゃないと感じている間は、
「虚無感を払拭しよう」という気すら起きないところだ。
そして、落ち込んでいる時の自分の思考には破綻がない(と思う)。
言い換えれば、「元気なとき」と「落ち込んでいるとき」のどちらが正しいかははっきりしない。
そのため、落ち込んだ時は「元気を出そう(何かを大事に思おう)」という気持ち自体が湧かないし、そのための行動(対処)をしようという気にもならない。
■対処法の案
・「それらは大事である」という気持ちを回復させる仕掛けを作る。
理屈で「それらは大事である」と納得させる。
文章などで「それらは大事である」と自分に思い込ませる。
投薬で「それらは大事である」と自分に思い込ませる。
・「この気持ちの萎みは、一時的なものだ」と自分に言い聞かす仕掛けを作る。
寝るなどして時間経過を狙う。
……続きはまた今度。
◾︎今日の出来事
・雨もあって家でひたすら「時間」を食べるような日。
・ジョジョリオン読了。面白かったです。
・奥さんが玄関入ったところに人感センサーのライト付けてた。