【創作論】 短編新人賞の一次選考を通過した(2回目) / 長編新人賞に応募した
タイトル通り。
まず、6月末に応募した短編が一次選考を通過した。
前回の一次選考通過作(ミステリ短編)とは違い、
ノンジャンル小説の賞。
今回も倍率二十倍を残ったことになる。残念ながら二次選考には残れなかったようだ。
今回の投稿作は、6月の記事で書いた通り、あまり自信のないものだった。
というのも、完成したのが締め切り前日であり、推敲や誤字脱字の時間が満足に取れなかったからだ。
「どうせ一次選考を通過しないだろう」と不貞腐れてすらいた。
なので今回の一時通過は、喜びというよりは驚きのほうが大きい。
(冷静になって見返してみると、話はきちんと成り立っているし、それほど悪いようにも思えないが)
とにかく、受賞歴をひとつ積み上げられたということで、前向きに捉えようと思う。
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さて、それとは別に、長編小説をひとつ完成させ、別の新人賞に応募した。
今回の目標は「二カ月で長編をゼロから書いてみる」というもの。
僕としては無謀とも言える強行スケジュールだったが、完成させることは出来た。
ひとまず「可能」であるらしい。
だが、やはり圧倒的に時間が足りず、〆切当日まで書いている惨事となった。
推敲すらほぼ出来ず、ただ提出しただけだ。
(前回に引き続き、)こんな状態で下読みの方に読んで頂くのが、本当に心苦しい。
また、プロットを練る時間を足りなすぎた。
「こういう話を書きたい」という感情をもって書き始めたのだが、
話のテンポがちぐはぐで、何がメインのシーンなのかよく分からない話になってしまったと思う。
正直言って、今回の出来にはかなり落ち込んだ。
今回学んだ一番の収穫は「完成させればいいという訳ではない」ということかもしれない。
他にも以下のことに挑戦した
・おじさんと青年を主人公にする
・非ミステリにする
・三人称で書く
恥ずかしいので詳細については書かないが、とにかく挑戦してみた事自体は有用だったと思う。
次回試したいことは以下。
・プロットに時間を割く
・「2ヶ月で長編1つ書き上げる」は、もう一度くらい試してみてもいいかも。
・自分が好きなタイプのキャラクターを登場させる
・ガチガチの本格推理小説を書いてみる。
今回は、睡眠時間、作業場所確保は上手く出来ていたと思う。
そこは活かしつつ、次はもっと納得のいく長編を目指そう。
【創作論】新人賞に応募したーー締切直前で出した事の反省
また小説の短編新人賞に投稿した。
執筆に際して、いくつか新しい事を試したのだが、それがあまり上手くいかなかったので、反省している……という話。
新しく試したこと。
・近い〆切を設定して自分を追い込んだ。(15日で80枚の短編ひとつ)
・未経験の設定に挑戦した(善良な主人公、日常の謎)
結果。
・書き上げて投稿することは出来た。
・推敲の時間が十分に取れず、誤字があるまま投稿してしまった。
・出来は(自己評価で)普段より少し悪い。
・過去最高の執筆ペースで進められ、充実した時間は過ごせた。
・寝不足がたたり、体調を軽く壊した。
今回の試行は、あまり上手くいかなかったと思っている。
特に誤字脱字を直しきれなかったのが辛い。
未完成のものを下読みの方に読ませてしまい、本当に申し訳ない。
とはいえ、自分の限界執筆ペースが見えたのは良かった。誤字や出来についても、反省点を得られただけでも良しとしよう。
次回は、〆切はタイトに設定しつつも、誤字脱字チェックや全体の構成チェックのために、せめて2〜3日は残すように注意しよう。
次は、8月末までに長編を投稿する。
進捗は現段階でゼロ(構想もない)。
スケジュールはかなり厳しいが、あまり時間のかからない題材を選べば無理ではないと思う。
次に試すことはこちら。
・タイトなスケジュールで長編を書いてみる。
・未経験のジャンルに挑戦する。
・誤字チェックの時間を設け、体調にも気を遣う。
とにかくまだ経験が浅く、何が出来るのかすらよく分かっていないので、色々と試してみようと思う。
【創作論】推理小説の新人賞で一次通過した。
タイトルの通りだが、報告。
ちょっと前に出した新人賞が一次選考を通過した。
※二次選考は、正式発表はまだだが、どうやら駄目だったようだ。
小説の賞で実績が残るのは初めてなので、とても嬉しい。
新人賞に投稿する際には、過去の投稿歴(他の賞も含)を書く規定になっているので、
今回一次通過した事実が、次回以降の評価にも繋がっていく(と思う)。
受賞には至らなかったけれど、今回の一件には大きな意味があると思いたい。
それに、僕が一人で孤独にやっていた創作活動が、ちゃんと他者に届いていた事実が嬉しい。
何だか「方向性は間違ってないよ」と言って頂けた気分だ。
次回作もちゃんと書き上げよう、と前向きな気持ちになれた。これが一番嬉しかった。
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さて、僕は趣味で小説を書いているけれど、
数ヶ月前から、「受賞すること」を第一目標としてはいない(生意気な事を言っている自覚はある)。
「書きたい事を書いて、楽しい気持ちになること」を第一義にしようと思っているのだ。
何故かと言うと、以前には「こういう作品が受けるんじゃないかな」と対策をして小説を書いた事もあったが、あまり楽しくなかったからだ。
そして、仮に書きたくない物を苦しんで書いて受賞(評価+デビュー)したら、その後もあまり楽しくないと思ったからだ。
もし「評価」や「仕事(お金)」のために嫌々作業するのであれば、それは今まで僕がやってきたような他の仕事と同じだ。
※それに、評価やお金が欲しいだけなら、小説創作という手段はあまり効率が良くないとも思う。
他の人はどうか分からないけれど、少なくとも僕は、楽しい気持ちになるために小説を書いている。*1
だから、まず「小説を楽しむこと」を第一義にして、評価は副次的な物として捉えようと思っている(本当に偉そうな事を言っている自覚はある)。
なので、今後ものほほんと、書きたいように書こうと思う。
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とはいえ一次通過は嬉しい。
繰り返しになるが、次作を書き進めるモチベーションが生まれたのが本当に嬉しい。
最近、小説を書くのも、小説を読んだり映画を観るのも、美術館なんかに遊び行くのも、どれも楽しく感じている。
とても良い傾向だ。このままずっと行ければ良いと思う。人生はそれほど甘くないかもしれないが。
*1:こう言えるのは、今既に僕が職に就いている(生活が安定している)からかもしれないが。
【生き方】 「幸福追求のための自分ルール設定」を止めてみる
何故か今だに生き辛さを感じている。
原因は何なのか。解決策は何なのか。
もうずっと昔から考え続けており、仮説を立てて検証してきた。
が、もしかしたら、
その「生き辛さの正体探る行為」(=幸福について考える行為)自体が、生き辛さを生んでいるのではないか?
そう思い、これから二カ月ほど「幸福について考えずに生きてみる」を試すことにした。
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具体的な作業は、以下の通り。
・普段行っている、「こんな生活で良いのだろうか」「どうすれば幸福になれるのか」という自問を、意識的に行わないようにする。
・普段行っている、「やるべき作業のリスト」(家事、自己啓発など)を見るのをやめる。
※必須の作業は、任意のタイミングで行う。
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上記のルールを、5/12から実践している。
ひとまず二カ月は続けてみようと思っている。
考えてみれば、本当に小さい頃から「幸福とは何か」を考えてきた。
物心ついた頃から、と言ってもいい。
そんな染み付いた思考を手放して10日ほど経った。
最初の数日は、無意識に人生について考えてしまい、それを強引に引き剥がす、ということを沢山した。
その頻度は恐ろしいもので、仕事中・プライベートに関わらず1時間に一回、二回のペースで行っていたと思う。完全に癖になっていたと思う。
また、ルールに囚われず生活することで、得体の知れない不安感に襲われてもいる。
自分が何処にも進んでいないという感覚。このままの状態で人生が終わってしまうのではないかという不安感。
しかし客観的に見て、別に僕の人生は「このままの状態で」終わってしまっても構わない筈だ。
腹の底から幸福を覚える瞬間もあるし、「今の自分は恵まれているな」と思う事もよくある。
そもそも僕は何を怖がっているのか? よく分からない。
無理やり理屈を付けるとしたら、
「長い間不遇だったから、『現状を打破しなければならない』という強迫観念に囚われている」
という所だろうか? これが正しい保証も何処にも無いが……。
とにかく、僕は上記ルールを7月まで進めてみるつもりだ。
自分で決めた小説執筆スケジュールも、ブログ更新期限も、日記をつける習慣も、全て投げ打ってみる。
これで楽になれればいいと切に願う。
【創作論】 小説執筆のモチベーション維持方法 ーー頭に浮かんだシーンを好き放題書く
最近、また小説を書き、新人賞に応募している。
今までも書いてはいたのだが、時間が取れないなどと言い訳をしてあまり進んでいなかった。それをここ数ヶ月でサクサク進め、また出版社に応募し始めた。
「小説を書く」という行為自体は、趣味や同人で何度かやった事があるので、出来ないということはない。
それよりむしろ問題なのは、モチベーションの維持ではないだろうか。特にアマチュアの場合、そちらで悩んでいる人間の方が多いような気がする。
しかも僕の場合、既に働いているので、書かなくても飢えて死ぬ訳ではない。仕事も忙しくなく、家庭や人間関係も問題ない。気分の浮き沈みも、あまり起こらない。現在、特に何かに困ったりしていない。
つまり、生活をモチベーションにすることかできない。書かなくても誰も困らない。
そうでない人であっても、「小説家を目指す」という道は、明らかに金儲けの手段としては非効率で不確実だ。
小説などというものは、絶対に、生存戦略に勘定してはならない。
それでは何の為に書くのか。
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書く理由は、いくらでも用意できる。
自己満足。自己顕示。露悪趣味。栄誉のため。書くのが好きだから。
どれも正解のようでいて、それほど強い感情ではない。そもそも、自己顕示欲等を満たしたいだけなら別の方法がいくらでもある(起業とか)。
自分かし、特に考えもせず「理由はこれだ! これが俺の原動力なのだ!」と宣言することで悦に入りたくはない。
なぜ小説を書くのだろう?
それを考えているうちに、自分が何をしたいのか、どのような小説を書きたいのか全然分からなくなって、ひどい時には書く手が止まることもあった。
では書かないのが良いのかというと、そうでもない。書かずに漫画を読んだりして過ごしても、どこか満たされない。
でも机に向かうと、どんな話を書くのが正解なのか、そんなことばかり考えてしまう。
そんな日々をここ一カ月ほど過ごしていたのだが、一つ解決策が見つかった。
それは、
「何も考えず、プロットすら決めずに、好き放題書く」
という方法だ。
白いワープロ画面(もしくはノート)に向かい、ただ純粋に、僕が今面白そうだと思った場面を文章として記述する。
例えば、小さい女の子がジャンプして、大男を叩きのめすシーン。その際、女の子の名前も経歴も考えなくていい。男の方も正体不明で構わない。もしくは、詳しく書きたいなら書いてもいい。女の子が奴隷で、男が商人なんてどうだろう。ありきたりかな。それなら大統領でもいい。仙人でもいい。場所はどこだろう。寒い日のことだろうか。屋内? 屋外? どこでもいい。どこまで書いてもいいし、書かなくてもいい。
言ってしまえば、落書きである。
むしろ細かく書きすぎないように注意する。先に言うが、この落書きがプロットになる。あまり細かく書いてこのシーンで満足してはいけない。
ひとつのシーンは早く切り上げ、次にどんな展開になるか、どんな展開が面白いかを妄想する。地球が爆発してもいい。宇宙人を出して面白いなら出してもいい。叩きのめした場所が密室で、そこから逃げなくてはならない、なんて設定にしてもいい。
綺麗にまとめようとか、どうすればウケるかとか、そういう事は後で考える。 話の辻褄も、後で考える。
最初の一回は、とにかく頭が発想した方へ、すらすらと書いていく。そして、話を終わらせたら面白いと思った場所で了マークを打つ。
この方法を試してから、書くのが楽しくて仕方がない。
もう、時間を見つけたらすぐに机に向かうようになった。頭に連想したものをただ文字に落とす作業が、楽しくて仕方がない。
ただし、あまり長時間は出来ない。頭が疲れる。何だか起きたまま強制的に夢を見ているような感覚で、普段使わない脳の機能を使う。でも、これこそが創作だという感じがする。
※もちろん、一度勢いで書ききった後は、落ち着いて清書する時間が必要だ。
最初の状態では、舞台設定も、人物も、何も固まっていないはず。例えば相手への呼び方だとか、部屋の構成とか、そういうものの整合性をとる。伏線を張ったり、物語のスピードの緩急をつけたりしても良い。
話に無理があったら、人物を増やしたり、減らしたりしてもいい。年代や場所を変更してもいい。ここで、物語として成立させる。世間にウケる内容にしたいなら、ここで内容を変更しても良い。そしてそれが出来たら、正しい日本語の文章に書き下す。
※人によっては、この「清書」の作業が難しいかもしれない。これは、自分の考えを他者に分かるようにする作業で、言うならば課題レポートや文書作成に近い。作業なのだ。しかし、物事を理路整然とさせる作業は、快感を伴ないだろうか? 少なくとも僕にとっては苦ではない。むしろ今までの経験(理系院生や技術職)か活かせる作業だと思う。
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この方法は、森博嗣の本に書いてあった執筆方法を、自分流にアレンジしたものだ。
話を聞いただけでは「ふうん、そんな方法もあるんだ」くらいにしか思わないかもしれないが、
とにかく僕にとっては、この方法の発明が、大変な前進だった。
この方法なら、僕はたくさん書ける。
これからもずっと書けると思う。
そして、書くのが楽しい。
そういう、前向きな気持ちになった。
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これは創作に限った話ではないけれど、人生には、何だかどん詰まりのように感じてしまう時がある。
消化不良というか、周囲の何もかもがつまらなく思えて、生きていること全部が無意味に思える時がある。
確かに、全てはつまらなく、無価値なのかもしれない。でも、それはその瞬間の貴方の感じ方でしかない。
そして感じ方とは、ボタンのかけ違いのように、ほんの些細なことで変えられるのではないだろうか。
僕は、もう小説なんて書けないのではないかと思った。そもそも小説なんて書きたくないのかもしれない。興味がないのかも。書いたって良いことなんて何もない。
世の中には、そういうネガティブな感情を助長する言葉が蔓延っている。
でも僕の場合、それは単なるボタンのかけ違いだった。
僕は今、小説を書くのが楽しい。それが全てだ。
「単なるちょっとした掛け違いかもしれない」
そう楽観的に考えて、色々と試す事こそが、最も重要なのかもしれない。
【生き方】『生きる意味』は元々設定されていない(サルトル)
前記事から二ヵ月経ったので現状報告。
結婚して5ヵ月が経った。
ささやかな結婚式も終わり、いわゆる日常が始まろうとしている。
で、ここ数週間、僕の気分は浮き沈みを繰り返している。
過去の生活から比べれば天国そのものなのだが、もはや「暗い気分」というものは悪い癖のようなもので、しつこく付いて回る。
これが時間経過で収まるのかどうか分からないが、つらつらと考えていることを書こう。
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最近、『生きる意味』を求めて哲学の入門書を読んでいた。
『生きる意味』という言葉はかなり曖昧だが、僕の求めているものは、
「漠然と生きるのではなく、何かに向けて、目標を持って生きた方が楽しいのではないか。その『何か』は生来的に決まっているのか。その『何か』とは何か」
という事だ。
少なくとも僕は、仕事を生きがいにする生き方は辞めた(忙しく専門的な仕事から、余裕があり替えがきく仕事に転職した)。
家庭に関しても、傲慢な言い方ではあるが、大きな問題が起きず大人しく定年まで働いていれば金銭的に困ることはないと思う。
要するに、漫然と生きていられる状態になったからこそ、新たに『生きる目標』を設定したくなったのだと言える。
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哲学の入門書をざっくり読んで分かったこととして、一言で言うと、
「生きる意味について、哲学史においても、絶対的な答えは出ていない」という事が分かった。
様々な説が提唱されているが、どれも一説に留まっているようだ。
いくつかの説の中で最も印象に残ったのは、サルトルの説だ。
曰く、
「人間は、何か意味を持って生まれるのではない。まず、事実として、人間はこの世に生まれ落ちる。その時点で生きることに意味はない。生きる意味があるとすれば、それは生まれた後にそれぞれ探して見つけるべきものだ」*1
とのこと。
サルトルという哲学者は『実存主義』という主義を抱えていて、ざっくり言えば
「神や意味について考えるのではなく、今目の前にあるこの世界や現実(実存)について深く考えるべきだ」
という考えの持ち主だ。
神の不在を証明しようとした訳ではないが、少なくとも「神は人間に対して大きく作用しない」と考えていた。
これらを合わせて考えた時に、上記のように、「意味の前に、まず在るのだ」
という考えに至ったのだろう。
これは言い換えると、
「我々は、『人間だから〇〇すべき』『女だから〇〇すべき』『こんな環境で生まれから〇〇すべき』といった制限は無い」
とも言える。
更にサルトルは、
「とはいえ、生きる意味がないままでいると人間は『不安』になる。だから、生まれた後に生きる意味を探すべきだ」
と語っている。
※とはいえ上述の通り、このサルトルの主張も『とある一説』に過ぎない。
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僕はこのサルトルの言葉を初めて読んだ時、悲観的に捉えた。
「元々生きる意味なんてなかったんだ」と考え、では死んでもいいのではないかと思った。
しかしこの落胆から、自身の逃げにも気付からされた。
つまり、哲学者に定義された『生きる意味』を探す行為は、自ら操り人形になりにいくようなもので、自分の人生を生きているとは言えない、という反省だ。
それを踏まえて、サルトルの言葉を楽観的に解釈すると、
「好きなように生きていい。人生の方針は、自由に決めていい」
ということになる。
いずれにせよ僕は、自分がどういう方針で生きるかを、自分で決めなければならないらしい。
—-
今日はここまで。
答えは全く出ていないけれど、生活に対する感じ方は少し変わったような気がする。
何も考えず生きるのも悪くない。悪い生き方というものは存在しない。
ただ幸福と不幸があるだけだ。その因果を自身の中に見つけなくてはならない。
*1:「実存は本質に先立つ」
【演劇感想】『誰も寝てはならぬ』(feblaboプロデュース)
◾️『誰も寝てはならぬ』
(feblaboプロデュース)
「演劇を完成するまで帰れません」
近未来、演劇がとうの昔に廃れた世界。
実験と称し、廃劇場に閉じ込められた素人7人が、演劇の練習を強要させられる。
果たして彼らは演劇を完成させられるのか?
コメディ調メタ演劇。
◾️感想
全体の出来としては、偉そうなことを言えば「まあまあ」なのだけど、ラストのオチは好み。こういうの見るために小劇場来てる。
終盤までの芝居ががった芝居とコメディシーンは凡庸だが、それをここであまり求めるのは酷だろうか。
大オチがある物語なのでミステリオタクの立場から読むと、ラストに至る伏線が少なすぎると言える。
メタ演劇ですよと明言する始まりは良いとしても、「演じることに対する違和感、照れ、葛藤」といったシーンをもっと入れてほしい。登場人物がそういう「演技の違和感」を覚えるシーンがあれば、観客も観劇中に「演じること」について考える時間を持てたのではないだろうか。
別の言い方をすると、劇中で彼らは芝居の稽古をする訳だが、その稽古の具体的な進捗や成長が描かれていない点が問題であるように思う。彼らが「演じることを受け入れる(理解する)」シーンがあってこそ、演技と本音の境目が曖昧になるあのラストシーンが映えるのではないか。
本劇は70分と短い訳だし、もっと時間を割いて彼らの成長(演技の自覚)を描くべきだったと思う。言わずもがな、そういったシナリオを書くのは難しいだろうが。
もしもそうではなく、伏線ゼロの唐突なラストにするのであれば、
何も勘ぐられずに楽しめるように、各コメディシーンはもっと気を使って自然にするべきだろう。しかし、各シーンを違和感なく(ストレスなく)笑って見させるには、世界観があまりにも異質であり難しい。こちらのシナリオも相当難しいと言わざるをえない。
他の点。
世界観の説明は、最後まであまりきちんとなされなかった。「演劇という文化が消え失せた近未来」との事だったが、”演劇”という言葉が知られてない程に異世界なのに、仕事やバイト代などはやたらとリアル。深く考えると成立してないように思う。まあ、これで流してしまえるのは演劇のメリットかもしれない。
役者さんの演技、演出に関しては特にコメントなし。途中、場面切り替えの暗転と見せかけて、暗いまま夜間のセリフが流れるシーンがあり、あそこは面白かった。
長々書いたが、やろうとしていること(オチの種類)はかなり好みのタイプで、楽しめた。役者さん達も難しい役に挑戦していたと思う。
この劇団の物はまた見ようと思う。目指している物が面白い以上、いつかは大傑作を作りあげることになるだろう、と思うからだ。今後に大いに期待できる。