先に言っておくが、今日は別に映画の感想記事ではないのだけど。
先日、『エド・ウッド』という映画を見た。
実在したエド・ウッドという映画監督の半生を描いた映画なのだが、
この監督は異常なほどの映画の才能がなく、
"史上最低の映画監督"としてマニアの間で有名な存在だ。
しかし彼の映画は、つまらないながらも映画愛に包まれている。
特に『プラン9・フロム・アウタースペース』という映画が"史上最低の映画"として有名で、
意味不明なその映像の中にウッドの空回りした愛情が垣間見え、見るものに熱い何かを感じさせる……らしい。
---
良い映画だったのだが、とりあえず映画の話はここまで。
『エド・ウッド』を見て僕が思ったのは、インターネットが発達したことで『駄作』の価値が著しく低下したな、ということだ。
ネットが存在しない頃、僕らは基本的に、商業的に流通した作品しか見ることが出来なかった。*1
だからこそ、『プラン9・フロム・アウタースペース』のような駄作は珍しく、人々は驚嘆し、それを愛したわけだ。*2
それは他のジャンルでも同じで、『たけしの挑戦状』や『デスクリムゾン』といったクソゲーも、珍しいから持て囃された。
ミステリの世界でも、『コズミック』や『6枚のとんかつ』みたいなものが商業作品として登場したから話題になったのだ。
しかし、ネットが流通した現在、僕らが駄作を目にすることは非常に簡単になった。
youtubeで適当な文字列で検索すれば、そこに出てくる動画は基本的につまらない動画だろう。
ストーリーを持ったものは少ないかもしれないが、もし見つければ、それが『プラン9~』よりもつまらない可能性はある。
ゲームだってネットで星の数ほど同人ゲームが配布・販売されている。
もちろん全てがつまらないとは言わないが、『たけしの挑戦状』以上に理不尽なものもあるだろうし、『デスクリムゾン』よりもつまらないものも多々あるだろう。
小説や漫画はそれが更に顕著で、素人の小説サイトなどを見れば、『6枚のとんかつ』以下のものなどごまんとある。*3
もっと広い範囲を取れば、素人の書いた酷い文章など、公衆の場ではトイレの落書きくらいでしかお目にかかれなかったはずだ。
しかし今では、ネットのそこらじゅうで目にすることが出来る。
以上のように、ネットの台頭によって『駄作』の価値がどんどんと下がっているのだろうな、と思って少し悲しくなった。
それでも、やはり「商業ベースに乗ったのにこの酷さはすごい」という評価指標はまだあるのだろうか。
まあ、大事なのは「愛情の空回り」なのだ。ただの駄作などどんな意味でも価値はない。
愛情を持って何かに取り組めば、出来はどうあれ何かしらの価値は生まれるのだろう。