今日はミステリの話。
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昨日、倉知淳『日曜の夜は出たくない』を読んだ。
本書はミステリ作家・倉知淳の処女作であり、
どこかほんわかした雰囲気が漂うユーモア系ミステリの短篇集だ。
この本には、『オチ』がある。
そしてその『オチ』の先に、更に真相とも言える『大オチ』が用意されている。
この『オチ』『大オチ』がかなりの曲者である。
かなり衝撃的な『オチ』なのだが、かなり強引というかアンフェアな代物で、また、相当に後味が悪い。
処女作であることもあり、一つ一つの話が読み返すほど面白くはない*1ことも、このオチの不完全さを助長している。
僕は、倉知氏がなぜこのような『オチ』を用意してしまったのか、よく分かる。
一言で言うと、「処女作だから、力んでしまった」のだ。
おそらく当時の倉知氏は、ミステリ界を一変させるような、スケールの大きい作品を書こうとした。
熟練したミステリマニアもあっと言わせるような、凄まじい作品を書こうとしたのだ。
だから、あのような(良くも悪くも)斜め上の『オチ』を用意したのだろう。
だが、倉知氏の持ち味はそこではない。
上述の通り、倉知氏の魅力は『ユーモア・ミステリ』にある。*2
人間味にあふれた可愛らしいキャラクターと、本格ミステリ要素。この二つがうまく融合していることが倉知氏の一番の持ち味、すなわち得意技なのだ。
そして、その『ユーモア』という持ち味を最大限活かすためには、本書のような『オチ』は必要がない。むしろ、持ち味の邪魔をしている。
おそらく倉知氏は、この時点で自らの持ち味をまだはっきりと自覚していなかった。それ故に、思いついた『オチ』を、我慢できずに使ってしまった。
それが、このちぐはぐな作品が出来た経緯だと思う。
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この問題は、決して倉知氏だけの問題ではない。
誰であっても、処女作はどうしても力みすぎてしまう。*3
読者の予想を裏切ろうとして、ひねりすぎてしまう。
小説を書く(書き始める)者は、この問題に無自覚であってはならないと思う。
自分の『長所』を冷静に把握し、それを最大限に活かす。
他の要素(ネタ)を思いついても、詰め込み過ぎない。ぐっと我慢する。
とてつもなく難しいことではあるが、意識をする価値はあると思う。
すべては読者のために。