作者が制御しきれている物語と、そうでない物語の話。
例えば、"若者"について語った物語は、
「"若者"を卒業した大人が、俯瞰的立場から若者を代弁する物語」と、
「"若者"が、等身大的立場から若者を代弁する物語」がある。
前者の例としては,サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』や、宮沢賢治、重松清、宗田理などが挙げられる。
後者の例としては、サガンの『哀しみよこんにちは』や、綿矢りさなどの若手作家の作品が挙げられる。*1
前者(大人が書いた若者の物語)は、作者に完全に制御されている。作者は主人公の気持ちの変化の理由を知っているし、それを操ることが出来る。
こういう物語は、理屈にそった無理のない物語となるというメリットがある一方、リアルさに欠けて迫力がない可能性がある。
後者(若者が書いた若者の物語)は、作者が物語を制御しきれていない。作者は主人公たちがなぜそう思い、そう行動するのか、その理由を理解していない。ただ現象として捉え、それを文にしているだけで、操ることが出来ない。
こういう物語は、迫力が生まれたり、文才があれば等身大の感情をリアルに描くことが出来るだろう。一方で、物語が収束しなかったり、答えが出なかったりする可能性がある。
このような分類は、青春小説だけでなく、ほぼ全てのジャンルで言える。
例えば女性を描く女性作家や、闘病の様子を語る詩人など、等身大の自分を描く作家はたくさんいる。
そしてもちろん、その逆も居る。
どちらが正しいのかというと、それはもう、各読者がどちらを求めているのかという話だろう。
物語性、プロット、エンターテイメント性を求めているのであれば「制御された物語」を読むべきだし、
作者の感性、文章力、表現力を求めているのであれば、「制御されていない物語」を読むべきだ。
言ってしまえばこれは、和食と洋食のようなものだ。
読者の好みによって価値が変わり、作者にも得手不得手がある。
そして、食材(題材)ごとに、最適な調理法がある、*2
その最たる例として、ミステリというジャンルは、「制御されること」が前提の物語だろう。*3
何故なら、最初に提示された謎が解明されるところが一番の肝であり、つまり「解明」という結末が必須条件だからだ。制御されていない物語は、「解明」という結末にたどり着く保証がない。これではミステリにならない。だから、ミステリは、制御されることが絶対条件なのだ。
上記のような話は、物語を読むときには考える必要が一切無いのだけど、
物語を書くときには、これを考えていると、方針が定まりやすくなり、だいぶ書きやすくなるのではないかと思う。
個人的には、「制御されていない物語」に憧れるのだけど、結局は「制御された物語」に終始してしまう……という気持ちでいる。
一長一短だし、どちらの作品も質が良ければ面白い。
物語と自分との距離感を、うまくとっていければ最高である。