kenpi20の灰色マインドマップ日記

都内で暮らす会社員のライフログ、現状把握、自己分析

【日記】 社会に参加している感覚がない

 

 

出掛けるのが凄く億劫で、でも出掛けなければならない時、

僕はイヤホンで音楽やラジオを聞きながら家を出る。

 

そうすると、「外に出る」という行為のハードルが劇的に下がる。

つまり在宅時と外出時のギャップが、良くも悪くも縮まる。

 

そういう意味で、携帯型プレイヤー(ウォークマン)はとてつもない発明だと思う。

それ以外にも、外出先でSNSに触れられる携帯や、もっと言えば外でも読書ができる文庫本も同じような役目を果たすかもしれない。

 

外出先でも「家に居るかのような感覚」を持続できる製品は強い。

それだけ内輪の世界が快適だということでもあるだろう。

 

 

こういった製品(思想)には、マナーの観点から批判が存在すると思われる。イメージだが、民族学的にも批判を喰らいそうだ。

つまり、

在宅時と外出時のギャップをきちんと把握することが社会生活上で重要であり、そのオン・オフの切り替えこそが"社会性"である

という主張である。

 

これはまあ、厳密な真偽は分からないが、「正しい可能性もあるな」と思う。

電車内で化粧をする女性のように、常に在宅時の意識で居る人間が、人間社会を滅ぼす、という理屈はかなり分かり易い。

 

 

しかし僕自身の感覚としては、その「社会」というやつが、どうしても実感として感じられない。

「外出スイッチ」をオンにして、イヤホンも付けずにSNSにも繋がらずにいることで参加できる「社会」というコミューンの存在を、僕は肌で感じることが出来ない。

 

僕の目に映るのは、外出先でもひたすら在宅時の世界に逃げこむ「個人」と、それを批判する「個人」の姿だけだ。道を歩いていても、電車に乗っていても、共同体に属しているという意識はない。

 

思えば、僕は生まれた時から「愛国心」とか「地元愛」「愛校心」といったものとは無縁だった。僕は神奈川県と東京都に住んだことがあり、いくつかの学校に通っていたけれど、そこの住人としての意識はついぞ芽生えなかったし、それは周囲の人も同じだと思う。

 

 

「社会」は、本当に存在しているのだろうか。

僕にとって「社会」は、「侍」とか「貴族制」のような、教科書の中の概念のように思える。

 

僕自身が、国や町、住人たちと繋がっている感じは、まったくしない。