kenpi20の灰色マインドマップ日記

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【日記】  古畑任三郎シーズン1 第2回『動く死体』 ―― 犯人の人物設定の巧み過ぎる回収

 


ドラマ『古畑任三郎』で、とても好きな回があるので、その紹介。


※途中からネタバレあり

 

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まず『古畑任三郎』シリーズの基本設定だが、

一話完結のサスペンスドラマで、毎回ゲストの大物俳優が、物語冒頭に殺人を犯す。

彼(彼女)は巧みに偽装工作する訳だが、それを殺人課の警部補・古畑任三郎に看破されてしまう、という筋書き。

 

特徴としては、犯人が最初から明示されており(倒叙モノ)、古畑任三郎がその犯行

を如何にして看破するか? という所が見どころとなっている点。

つまり、基本的にミステリーではなくサスペンスな訳だ。

 


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で、今回お話するのは、『第2回 動く死体』。


第二回のあらすじは以下のとおり。


歌舞伎役者の中村右近堺正章)は、過去の自分のひき逃げ事件の口止めに関する口論の末、警備員を殺してしまう。

彼は一旦死体を隠した後、歌舞伎の演目に参加する。
そしてその日の夜、事故死に見せかけるため、迫(舞台の床にある昇降装置)を使って死体を舞台の中央へと移動させる。

 

その後、右近は自分の控室でお茶漬けを食べ、帰宅しようとした所で捜査中の古畑任三郎と出会ってしまう。

 

 

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さて。さてである。

 

まず最初に、基本的にこのシリーズの魅力はミステリ的な部分には無い。

古畑が真相を暴く手がかりが読者に述べられないことも珍しくなく、一言で言うと「アンフェア」だ。

 

しかしそれは悪いことではない。そもそも倒叙モノである本作にそんなことを求める人は少ないだろうし、三谷幸喜(ミステリ専門では全くない)の作品にそれを求める人など皆無だろう。だからそれはいい。

 

その上で、僕はこのシリーズが好きで、特にこの『動く死体』は素晴らしいと思う。

何故かと言うと、ミステリ的な部分ではなく、物語の伏線(必然性)回収という意味で相当に巧みだからだ。


説明をしていこう。

このシリーズにおいて、脚本家が回収しなければならない伏線(ハードル)がある。

 

1.犯人の職業の必然性。

 このシリーズでは、意図的に犯人の職業が特殊なものとなっている。作家、心理学者、教師、そして歌舞伎役者などなど。このシリーズの脚本家(三谷幸喜)は、この特殊な設定を投げっぱなしにすることなく、必ず職業をストーリーを絡ませている。つまり犯人に、その職業ならではの犯行方法や失敗をさせているのだ。そしてそれが非常に巧く、シリーズ物なのにマンネリを感じさせない要因になっている。
 つまり『動く死体』の例で言えば、犯人が歌舞伎役者であることを何処かで活かさなければならない。

 

2.犯人の人物像の奥深さ。

 このシリーズにおいて、最も出番が多く強調されるのは犯人役である。古畑はそれほど多くは出てこない。つまり、物語を面白くするために、犯人の人物像を深く、強烈に描かなければならない。
 例えば犯人がクイズ王だとして、唯のクイズ王ではつまらない。今までいくつもの事業に失敗していて、それをクイズでようやく人生を挽回できた、だから横暴な態度を取っている嫌な奴……というように、キャラクターとしての奥深さを出さなければない。そして出来るなら、それをストーリー(事件)と絡ませたら最高である。

 

以上に挙げた『犯人の職業の必然性』『犯人の人物像の奥深さ』の二点を、歌舞伎役者(堺正章)の回でどうまとめたのか?


では、『動く死体』ではこれらの点をどうクリアしたのか。
その回の最後のシーンの会話を以下にまとめた。

 

 

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※以下、ネタバレあり

 


古畑は犯行を突き止めた。

犯罪が破綻した契機は、犯人が迫(舞台の床にある昇降装置)を上げっぱなしになっていた点だった。
犯人は、迫の上げ方は知っているが下げ方は知らない人物……つまり、「迫に乗って舞台に登場する歌舞伎役者」しかありえない。
そうして犯人は、犯行を認めた。

 

古畑「一つうかがっていいですか?」

犯人「何ですか?」

古畑「どうしてすぐに帰らなかったんですか? 普通、人を殺したらどんな犯人だって、少しでもその場から遠くへ離れたいと思うもんです」

犯人「やっぱり不思議ですか?」

古畑「はい」

犯人「来月やる、盟三五大切って芝居ね。私がやる薩摩源五兵衛。芸者殺した後に、茶漬け食うんですよ。どんな気持ちか味わってみたくなってね。こんなチャンスそうあることじゃないから。……役者の鑑でしょう?」

古畑「はい。……でも、犯人としては」

犯人 「最低」


(終劇)

 

 

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 物語の必然性をまとめあげた、素晴らしいラストだと思う。

 

 当初、歌舞伎役者という設定は、犯行が破綻した件(迫の操作方法)で使われていると思われた。これは間違いではない。しかしもう一段、「なぜお茶漬けを食べたのか」にも掛かっている。これが素晴らしい。

 

 この「お茶漬けを食べた理由」は、視聴者には分かるはずもない謎だ。しかしこれに、「生粋の歌舞伎役者だから」という答えを用意することで、職業の必然性を満たすだけでなく、後味を良くし、また「犯人の人物像の奥深さ」も描写した。

 また、お茶漬けにより犯行が破綻したことで、「この人物は殺人犯である前に、歌舞伎役者だ」ということも明確に伝わってくる。

 

 まさに、ジクソーパズルの最後の1ピースとでも言えるような、最高のシーンである。

 

 そして何より恐ろしいのが、このお茶漬けの件は、別に無くてもストーリー上は困らない、という点だ。犯行を犯して事件を解決する、という筋書きの上では、このお茶漬けのシーンは無くても良い。

 つまり三谷幸喜は、上で挙げた伏線や描写のためだけに(ミステリとは関係のない部分のためだけに)、このお茶漬けの件を追加したのだ。

 こういう心配りに関して、三谷幸喜は天才である。これは、おそらく彼がミステリ作家でないからこそ出来たとすら言える。

 

 脚本の面白さとは、フェアとかアンフェアとか、ジャンルがどうのとか、そういう次元ではないのだろう。

 こういうシーンを、ストーリーとは関係なしに、「ただ」面白くするためだけに思いつき、挿入する……まさに脱帽である。


 この件だけ見ても、三谷幸喜は、天才型というよりも、丹念に脚本を練り上げていく努力型の脚本家だと思われる。

 

 面白い脚本というのは、練り上げられていくものなのだな、と強く感じた一作だった。