久しぶりにポジティブな日記である。
今日は、まだ夏季休業期間中ではあるが、久しぶりに研究室に行って作業をしてきた。
今日の作業は、修士論文を書き始めるにあたって、自分が今何をしていて、何が問題で行き詰まっているのかを再確認し、あわよくばその対策を考えようという作業だった。
結果として、これがとても楽しかった。
自分のノートや論文を読んでいると、意外と論理的に書かれていることに驚く。
曲がりなりにも理屈にあった話をしようとしている。
つまり「論理的正しさ」を追い求めているのだ。これが、読んでいて楽しい。
これは僕個人の特性ではなく、科学者一般の特性だ。
科学の議論においては、まず第一に「論理的正しさ」を重視する。
「人気が出るかどうか」とか、「あの人は性格が悪いから」とか、そんな基準では論文(研究)を見ない。
もちろん例外は居る。
ありもしない細胞を「ある」と言って発表した研究者も居た。
彼女は論理的正しさを、つまり科学を愛していなかったのだろう。
あれに対する報道も「科学的」ではなかった。
「誰が悪いのか」とか、「悪意はあったのか」とか、「研究所はどうするのか」とか、科学の議論としてはどうでもいい。
科学的に価値が有るのは「論文が正しいかどうか」だ。
彼女が悪人だろうと善人だろうとどうでもいい。
科学者は、論理的正しさだけを追求して日々生きている。
僕はその事実が嬉しい。
こういう世界があり、こういう人々が居るという事実そのものが嬉しい。
「評判」「売上」「社交性」「人気」なんかがもてはやされる世の中だが、
「正しさ」だって、立派な一つの価値基準なのである。
社会的な意味は無いかもしれない。
でも、その「正しさ」を大事にしてもいい、という事実が、僕には嬉しい。