僕は趣味で小説を書いていて、今日はその内容や悩みについて日記を書こうと思い、実際に書いていたのだけど、全て消してしまった。
書き途中の作品について作品外で公言することは、「小説を完成(完結)させたい」というモチベーションを著しく低下させるからだ。
つまり、プロットを組んで、短くはない分量に乗せて最大限の効力を発揮するように書いている小説について、「つまり僕はこういう事を書きたいんだよ」と一言で言ってしまったら、もはやそれを書ききることにあまり意味を見いだせないだろう、ということだ。
しかも、その書きたいこと(主旨という意味ではなく、構成や雰囲気、読後感なども含めて)が一言で言い表せないからこそ小説を書いているわけで、無理やりここで一言で書いてしまったら、そこに現れるのは書きたいことの残骸――何でもない駄文にしかならないだろう。
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さて、言うまでもないことだが、趣味で小説を書いているだけの僕が、上記のように偉そうな(クリエイターぶった)思考、もとい哲学を振り回している本記事は、とても痛々しいことだろう。
それは全くもって否定できないし、そう想った貴方の感性は正常である。
しかしそれでも、僕にとって、僕が今書いている小説はとても大切なものなのだ。
他人と自分とでここまで価値観が異なるモノというのは他には無いだろう。この価値の高低差には未だに慣れない。
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ここ2週間ほど、小説を書き進める手が止まっている。
精神の不安定さが出ているのかもしれないし、大学院の作業が忙しかったからかもしれないし、単にサボっているだけかもしれない。
原因は分からない。おそらく断定できない。あるのは「書いていない」という結果だけだ。
小説を書くという行為は、僕にとって、とても大事な要素だ。
もちろん、周囲の人間にとって僕のその行為が無価値であることは知っている。
例えば、僕の大学院での作業は、教授は先輩の実績の一部となるので彼らに(作業することを)礼賛される向きがある。
来年からの社会人としての活動も、上司からは当然礼賛されるし、そもそも社会的な営みは社会全体から「善」とされている。
しかし小説の執筆は違う。これは完全に自己満足で、今辞めたとしても誰も困らない。
でも、僕が一番やりたいのはこれなのだ。
書き進めるのは体力が居るし疲れるれけど、書いている時は楽しいし、それに集中できているという感じがする。
つまり僕は小説を書くのが好きなのである。
それ以外に書く理由は無いとも言える。
好き、という感情が、主観的にとても大事であることは僕も知っている。
でも、だからこそ、上手く書けないことが悔しかったり、本当にこれで良いのか悩んだり、悶々と考えこんでしまう。
たぶん僕は小説を書くのが好きだ。それだけは忘れないでいたい。今後ずっと。