kenpi20の灰色マインドマップ日記

都内で暮らす会社員のライフログ、現状把握、自己分析

【工学エッセイ】 工学は誰のために?

 
今日は、僕が数年前に聞いて、印象に残っている研究発表の質疑応答の話をしよう。
 
 
それは、研究室内の発表会(とも言えないような小さなイベント)における質疑だった。
 
発表者は、自分が作ろうとしている装置として、「犬と自動で遊んでくれるロボット」を提案していた。
ルンバのように床面を走行する小型ロボットで、犬と追いかけっこをしてくれるというものだ。
飼い主は、このロボットを使うことにより、日々の犬の世話の一部から解放されるとの事だった。
(※これは卒業研究テーマではなく、単なる授業課題の一環であった。そのためこの装置が発表・製品化されたという事実は全く無い。念のため)
 
 
そんな彼の考えたコンセプトに対して、ある研究者が批判的な意見をした。
彼の考えはこうだ。
 
「犬を飼うという行為は、能動的に行われるはずだ。だから、犬の飼い主は、犬の世話がしたくて飼っているのではないか。そう考えると、このロボットを用いて『世話から開放される』ことに意味を見いだす対象者が見当たらない。このロボットは社会にとって不必要なのではないか」
 
この意見について、発表者はあまりピンと来なかったようで、あまり的を射た返答ができなかった。周囲の聴衆も同様で、議論はすぐにメカ的な話題(機械装置として実現可能かどうか)へと移っていった。
 
しかし僕は、彼の意見に心を打たれていた。
彼の意見が、工学の本質を突いていると感じたからだ。
 
彼の意見は正しい。
それが分かりにくいのは、我々の大半が「犬を飼う人間」ではないからだ。だから、犬の世話が面倒な行為だと決めつけてしまう。
しかしそれは違う。飼い主にとって、それこそが目的なのだ。
手間をかけたくて、犬を飼っているのだ。
 
工学の最終目的は、以前書いたとおり、「使用者の生活の改善」である。
しかし、「善」は個人によって異なる。
その尺度を、工学者が勝手に決めてはならない。
 
(もちろん現実的には、「毎日世話をするのは面倒だ」などという飼い主も居るだろう。そういった意見も含めて、あの場では装置の対象者について議論されるべきだったと思う)
 
 
機械設計や、製作者の興味が第一目的になってはならない。
あくまで、使用者のために。
あの研究者の意見からは、そういう工学の基本姿勢が感じられた。
 
 
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