kenpi20の灰色マインドマップ日記

都内で暮らす会社員のライフログ、現状把握、自己分析

【自意識】なぜ自分には生きる気力が沸かないのか

<今回のまとめ>

・自分に生きる気力が沸かないのは、「君には価値が有るよ」という好意的な周囲の意見を無視しているからである。

・無視する理由は、他者の価値観を重視することに抵抗があるからである。

・「他者の価値観を軽視すること」は本当に悪いことだと思う。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 

 

 

 なぜ、僕には生きる気力がわかないのかを、思考整理しながら書いた。

 これは一般論ではないので、皆さんには当てはまらないかもしれない。というかおそらく当てはまらないだろう。そういう意味でタイトルに『自分には』と書いた。ある一つのケースだと捉えてほしい。

 ちなみに、特に現状打開の案も提示しないので、期待しないでください。

 

 

 僕は今のところ、あまり「生きる」ということに執着が持てない。死にたい、と強く思うわけではないが(本当に思ったら死んでいる)、生きたい、と強く思えない。例えば明日マラソン大会に出なければならなくなったら、面倒だから自殺してしまうかもしれない。何故か、と言われても理由はない。むしろ理由が必要なのは、積極的に生きようとしている人たちの方だ。そして彼らの「生きようとする理由」は、おそらくはっきりと存在する。それについてあとで触れるが、とりあえず僕にはそういった、能動的に生きる理由が見いだせない。言い換えると、僕は今、自分の命にあまり主観的な価値を見いだせない。

 

 しかし、こういう事を言うと怒る人が居る。それは、大半は「人生観に関する自分の倫理を僕に押し付けてくる人々」であるが、たまにそうでない人々も居る。個人的に僕を特別視してくれる人々だ。親とか、友人とかのうち、僕を好意的に見てくれている人。つまり、僕の命に主観的な価値を見出してくれている人だ。僕に対して、「死なないでくれ」と言ってくれる。その言葉の強さに関わらず、ありがたいことである。彼らは、自分が大事にしている「僕の命」を、僕自信が大事にしていないという事が理由で、怒る。大事にしているものを貶されて怒るのだ。口では客観的な理屈を言うかもしれないが、本質はそこだ。物事の価値観(何を大事に思うか)が自分と違う人に対して怒っているのだ。

 

 この、「価値観が違う人に対する嫌悪感」というものは非常にありふれたものだ(怒るかどうかは別として)。例えば自分の大好きな人や作品を貶された時、憤りを感じる。自分の嫌いなものを、人々が高く評価している現象も、基本的には快くは思わないはずだ。逆に言えば、自分の意見が共感されたり、自分がマジョリティに居ることは基本的に心地いい。これはおそらく、集団における自分の立場を護るための動物的本能ではないかと思う。すなわち、他人の価値観を気にして、それと自分の価値観を比べて何かを思う行為は、本来的な、人間の性質なのだろう。

 しかし、価値観が違うからといって、それを理由に人を貶したり暴力をふるうのは、やってはいけない事だと僕は思う。「価値観が違う人に対する嫌悪感」を抱くのは仕方がないとしても、それを理由に迫害をしてはいけない。その思いを表出させてはいけない。何故なら、人々には思想の自由があり、表現の自由があるので、基本的にどんな価値観でも良いはずだからである。価値観が違うことは何ら悪いことではないのだ。人の価値観に関してどうこう言う行為は、行ってはならないのだ。

 

 ……というような事を、おそらく僕は強く意識し過ぎたのだと思う。

 それによって生じたことは、「他人の価値観を軽視する」という現象(価値観の発生)である。つまり、「人の価値観に関してどうこう言ってはならない」と考え過ぎたせいで、「人の価値観と自分の価値観を比較してはならない」となり、「自分の価値観を創出する過程で、人の価値観を参考にしてはならない」と考えた。一見すると問題がなさそうだが、これは今思うと、全ての引き金だったのだ。つまり、「自分の命にあまり価値を見いだせない」という現象はここから起きているのである。

 

 分かりづらいかもしれないが、ここで話を戻し、今を能動的に行きている人の「生きようとする理由」について考える。これはつまり「自分の命に価値を見出したきっかけ」という事だが、おそらくそれは、他者に「君の命が重要だ」と言われた事なのではないかと思う。ひらたく言えば、人に褒められたり好かれたりしたので、自信を持ったという事だ。「君の命が重要だ」という"他者の価値観"に感化され、「自分の命が重要だ(価値がある)」という"自分の価値観"が形造られたのである。

 

 しかし僕はその「生きようとする理由」(=「自分の命に価値を見出す理由」=自信)を持っていない。何故か。それは、前述の「自分の価値観を創出する過程で、人の価値観を参考にしてはならない」という考えに起因するのだ。つまり、他者に「君の命が重要だ」と言われたとしても、(能動的な生存者とは違い)「人の価値観を参考にしてはならない」という考えに囚われているために、「自分の命が重要だ(価値がある)」とは思えないのである。だから僕は、生きる理由を持てないのである。

 

 非常に分かりにくいのでまとめると、僕の思考プロセスは以下のようになる.

 

・思想の自由があるので、他人の価値観は尊重しなければならない

→他人の価値観と自分の価値観が違っても憤ってはいけない

→自分の価値観を決定する際、他者の価値観を参考にしてはならない

→いくら他者に「君が大事だ」と言われても、それを基に「自分は大事だ」とは考えられない

→自分を大事に思えない

→生きる気力が沸かない

 

 

 ここまで頑張って、何故自分が「生きよう」と思えないのかを整理してきた。

 結果として出てきた上記の文章は、他者にとって、かなりひどいものだと思う。何故なら、「お前らの価値観なんてどうでもいいし、無価値だ」と言っているからだ。この理屈が通っている限り、僕は周囲の言葉を無視し続けることになる。価値観を否定するほどひどいことは他にない。それは人生観を否定することであり、それまでの人生全てを否定することでもあるからだ。本当にひどい。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。できることなら、今すぐやめたい。しかし、一度信じてしまった(通してしまった)理屈は、その理屈の中にほころびを見つけない限りやめられない。

 

 僕は今後も、他人の意見からは距離を置き、自分の価値も図りかねたまま生きるだろう。皆のことは無視せざるを得ない。本当に申し訳ないし、僕もつらい。もうやめたい。他人(神?)を信じて、自分や他人の価値観に自信を持って生きていきたい。何かにすがりたい。でも、それをしてしまうと、それ以外の思想を弾圧することになる。それはいけない。だから何者も信じることはできない。一部を糾弾しないためにも、全員を無視するしかない。そうして、「無視するな!」と怒られても、僕は耳と目を塞いでいることしかできず、ここに存在していいかも分からぬまま、ただ申し訳なく思うだけだ。だたひとつ言えるとしたら、本当にごめんなさい、ということだけである。

 いつの日か、こんな馬鹿みたいな事で悩まず、自信を持ち、楽しく生きたいと本当に思う。

 

 

 

 以上です。今回は特にまとめもなく終わります。

 

 今回は本当に思考整理でしかなくて、まとまりもなく、くどく、非常に読みづらかったろうと思う。読んでくださった方がいたら、時間を取らせて非常に申し訳ない。

 非常に抽象的な文章になったが、素直に書いたつもりだ。これでも僕はポジティブになりたいのである。早く、こんなことを考えない人間になりたい。