最近、また小説を書き、新人賞に応募している。
今までも書いてはいたのだが、時間が取れないなどと言い訳をしてあまり進んでいなかった。それをここ数ヶ月でサクサク進め、また出版社に応募し始めた。
「小説を書く」という行為自体は、趣味や同人で何度かやった事があるので、出来ないということはない。
それよりむしろ問題なのは、モチベーションの維持ではないだろうか。特にアマチュアの場合、そちらで悩んでいる人間の方が多いような気がする。
しかも僕の場合、既に働いているので、書かなくても飢えて死ぬ訳ではない。仕事も忙しくなく、家庭や人間関係も問題ない。気分の浮き沈みも、あまり起こらない。現在、特に何かに困ったりしていない。
つまり、生活をモチベーションにすることかできない。書かなくても誰も困らない。
そうでない人であっても、「小説家を目指す」という道は、明らかに金儲けの手段としては非効率で不確実だ。
小説などというものは、絶対に、生存戦略に勘定してはならない。
それでは何の為に書くのか。
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書く理由は、いくらでも用意できる。
自己満足。自己顕示。露悪趣味。栄誉のため。書くのが好きだから。
どれも正解のようでいて、それほど強い感情ではない。そもそも、自己顕示欲等を満たしたいだけなら別の方法がいくらでもある(起業とか)。
自分かし、特に考えもせず「理由はこれだ! これが俺の原動力なのだ!」と宣言することで悦に入りたくはない。
なぜ小説を書くのだろう?
それを考えているうちに、自分が何をしたいのか、どのような小説を書きたいのか全然分からなくなって、ひどい時には書く手が止まることもあった。
では書かないのが良いのかというと、そうでもない。書かずに漫画を読んだりして過ごしても、どこか満たされない。
でも机に向かうと、どんな話を書くのが正解なのか、そんなことばかり考えてしまう。
そんな日々をここ一カ月ほど過ごしていたのだが、一つ解決策が見つかった。
それは、
「何も考えず、プロットすら決めずに、好き放題書く」
という方法だ。
白いワープロ画面(もしくはノート)に向かい、ただ純粋に、僕が今面白そうだと思った場面を文章として記述する。
例えば、小さい女の子がジャンプして、大男を叩きのめすシーン。その際、女の子の名前も経歴も考えなくていい。男の方も正体不明で構わない。もしくは、詳しく書きたいなら書いてもいい。女の子が奴隷で、男が商人なんてどうだろう。ありきたりかな。それなら大統領でもいい。仙人でもいい。場所はどこだろう。寒い日のことだろうか。屋内? 屋外? どこでもいい。どこまで書いてもいいし、書かなくてもいい。
言ってしまえば、落書きである。
むしろ細かく書きすぎないように注意する。先に言うが、この落書きがプロットになる。あまり細かく書いてこのシーンで満足してはいけない。
ひとつのシーンは早く切り上げ、次にどんな展開になるか、どんな展開が面白いかを妄想する。地球が爆発してもいい。宇宙人を出して面白いなら出してもいい。叩きのめした場所が密室で、そこから逃げなくてはならない、なんて設定にしてもいい。
綺麗にまとめようとか、どうすればウケるかとか、そういう事は後で考える。 話の辻褄も、後で考える。
最初の一回は、とにかく頭が発想した方へ、すらすらと書いていく。そして、話を終わらせたら面白いと思った場所で了マークを打つ。
この方法を試してから、書くのが楽しくて仕方がない。
もう、時間を見つけたらすぐに机に向かうようになった。頭に連想したものをただ文字に落とす作業が、楽しくて仕方がない。
ただし、あまり長時間は出来ない。頭が疲れる。何だか起きたまま強制的に夢を見ているような感覚で、普段使わない脳の機能を使う。でも、これこそが創作だという感じがする。
※もちろん、一度勢いで書ききった後は、落ち着いて清書する時間が必要だ。
最初の状態では、舞台設定も、人物も、何も固まっていないはず。例えば相手への呼び方だとか、部屋の構成とか、そういうものの整合性をとる。伏線を張ったり、物語のスピードの緩急をつけたりしても良い。
話に無理があったら、人物を増やしたり、減らしたりしてもいい。年代や場所を変更してもいい。ここで、物語として成立させる。世間にウケる内容にしたいなら、ここで内容を変更しても良い。そしてそれが出来たら、正しい日本語の文章に書き下す。
※人によっては、この「清書」の作業が難しいかもしれない。これは、自分の考えを他者に分かるようにする作業で、言うならば課題レポートや文書作成に近い。作業なのだ。しかし、物事を理路整然とさせる作業は、快感を伴ないだろうか? 少なくとも僕にとっては苦ではない。むしろ今までの経験(理系院生や技術職)か活かせる作業だと思う。
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この方法は、森博嗣の本に書いてあった執筆方法を、自分流にアレンジしたものだ。
話を聞いただけでは「ふうん、そんな方法もあるんだ」くらいにしか思わないかもしれないが、
とにかく僕にとっては、この方法の発明が、大変な前進だった。
この方法なら、僕はたくさん書ける。
これからもずっと書けると思う。
そして、書くのが楽しい。
そういう、前向きな気持ちになった。
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これは創作に限った話ではないけれど、人生には、何だかどん詰まりのように感じてしまう時がある。
消化不良というか、周囲の何もかもがつまらなく思えて、生きていること全部が無意味に思える時がある。
確かに、全てはつまらなく、無価値なのかもしれない。でも、それはその瞬間の貴方の感じ方でしかない。
そして感じ方とは、ボタンのかけ違いのように、ほんの些細なことで変えられるのではないだろうか。
僕は、もう小説なんて書けないのではないかと思った。そもそも小説なんて書きたくないのかもしれない。興味がないのかも。書いたって良いことなんて何もない。
世の中には、そういうネガティブな感情を助長する言葉が蔓延っている。
でも僕の場合、それは単なるボタンのかけ違いだった。
僕は今、小説を書くのが楽しい。それが全てだ。
「単なるちょっとした掛け違いかもしれない」
そう楽観的に考えて、色々と試す事こそが、最も重要なのかもしれない。