kenpi20の灰色マインドマップ日記

都内で暮らす会社員のライフログ、現状把握、自己分析

【日記】 人並みの幸せは掴めないが

 

どうしようもない生活を送っているけれど、少しだけ、前向きな気持ちになったので書き残しておこうと思う。

 

 

僕の人生は冴えない。

この三連休も、一日目は休日出勤で、二日目は家で転職サイトや自己啓発本を斜め読みして終わった。
最終日の今日は、持ち帰ってきた仕事をやる予定だ。

 

仕事もぱっとしない。新人であることを差し引いても、お世辞にも仕事が出来るとは言えない。そもそも興味がない。ではどんな仕事に興味があるかというと、別に何があるわけでもない。
要するに、努力することから逃げている。

 

仕事の都合で田舎に来ているので、劇場や美術館もない。友達もいない。飲食店巡りも大体行き尽くした。
「27歳まで独身だったら結婚しよう」と話していた女性には彼氏が出来た。

 

趣味の小説執筆も、新人賞の締め切りに向けて慌てて書いている感じだ。何というか、せかせかしている。


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それでも少しだけ心は上向きなのは、昨日、『ティファニーで朝食を』の「ムーンリバー」を聞いていたからだ。

 


ムーン・リバー by オードリー・ヘップバーン


僕はこの曲が好きだ。

英語が苦手なので歌詞の意味は調べなければ分からないけれど、気持ちが穏やかになる。

 

結局のところ、人を癒やすことが出来るのは芸術だけだと思う。

 

これは一時的な応急処置にすぎないし、また数時間後には死ぬことばかり考えているのだと思うけれど、一瞬でも生きていたいと思えたという事実は大きい。

 

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『真面目に生きていればいいことがある』というのは嘘だと思う。

極論を言えば、ガス室に送り込まれたユダヤ人が不真面目だったとは思えない。

身近な例でも、交通事故に巻き込まれて死んだ人間は不真面目だったのか。父親に犯され続けた女性は不真面目だったのか。

 

どう生きた所で、ぼくは多分、人並みの幸せはつかめないだろう。

親とは結局うまくいっていないし、仕事を愛してもいないし、また愛すべき人も居ない。人に愛されていないし、僕も自分を愛してもいない。

 

それでもムーンリバーは好きだ。ナイン・ストーリーズは何度読んでも素晴らしい。落語の芝浜を聴くと今でも泣いてしまう。茨木のり子の詩を、僕は死ぬ瞬間まで忘れないだろう。

 

僕の人生に本質があるとすれば、多分そういった部分だと思う。これら(というか僕の存在)は、周囲から見ればどうでもいい、ゴミみたいな要素だろうけれど、僕自身がこのために生きていると思うのだから、そこにしか正答はない。

少なくとも今日僕は生きているのだ。そう思える瞬間が確かに存在していたことを書き残しておこうと思う。

 

 

【日記】 休日(人生)がつまらないが、原因と解決法が分からない


最近色々とあまり上手くいっていない。


ブログを書いていなかったのは、単純に忙しかったのもあるけれど、
「ブログを書く」という時間の使い方が正しいのかよく分からなくなったからだ。

 

それでも今日こうして書くことにしたのは、

僕が生きている(生きていた)こと、少しはモノを考えていることを、誰かに伝えたかったからだと思う。


色々と書くべきことはあるけれど、とりあえず休日について書こうと思う。

 

 

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正しい時間の使い方がよく分からない。

休日はとにかく家で落ち込んでいる。

 

映画や小説は相変わらず好きで、それなりに観て読んでいるのだけど、

モヤがかかっているような、完全に楽しめないような気分だ。

 

「人とかかわったほうが良いのかな」と考え、でも転勤先に居て友人も居ないので、

『読書会』なる社会人サークルに参加した。

結果、趣味の友達(というか知り合い)が何人か出来た。

おそらくこれは良い事なんだろうと思う。

 

だけれど、僕の興味がいつまでもつか、自信がない。

それにそもそも僕は転勤族だ。いつまでここに居るかも分からない。

 

 

で、そこで会った女性に二人で会わないかと誘われ、二人で会った。

その人はテレビが好きらしく、芸能人の話をよくしてきて、あまり話は合わないなあと感じた。

相手はどう思っているのだろう? よく分からない。この行為に意味はあるのだろうか?

こんな心持ちなのに会う回数を重ねるのはちょっと心苦しい。

 

 

「料理ができる人になりたい」と思って、簡単な料理もしてみた。

毎日作るのではなく、好きな料理だけでも作れるようになろうと、

ツナサンドや、ナポリタン、カレーなんかを本格的に作ってみたこともあった。

しかし2~3回で飽きてしまった。

 

外食(食べあるき)は趣味として破綻した。

転勤で来ているこの街の有名店は大体行ったし、どこも別に美味しくはない。

 


資格の勉強も初めてみた。が、気持ちがあまり入らない。

特にやりたい(出来るようになりたい)仕事がある訳でもないからだ。

「やらなきゃなあ」と思って、進んでいない。

 

 

小説の執筆は、あまり進んではいない。前に書き上げたものは自分なりによく書けていたのだが、今のやつはあまり自信がない。

 

柄にもなくジョギングもしてみた。3年ぶりくらいだ。

これもまあ、悪い方法ではないが、続いてはいない。「こんなことをして何になるんだ?」という気持ちが消えない。

 


結局やっているのは、ネットで無料公開されている漫画を読むことくらいだ。

それも楽しんで読んでいるという感じではない。時間を浪費している感覚。しかし何かをしたい訳ではない。

 


一体何を苦しんでいるのか自分でもよく分からない。

どうなりたいのか、何がしたいのか、分からない。

旅行に行って発散したいという気持ちもないし、今の僕は、友達と話しても良い結果にはならない気がする。

何をしていても、「こんなことをして何になるんだ?」という気持ちがつきまとう。*1

 


自分にとって有意義な行為って何だろう?

「小説を書くことだ!」と自分を偽るのは、まぁ無理すれば出来るだろうか。

「今の仕事を頑張ることだ!」という嘘は、もうそろそろ自分には効かない。

「休日くらい好きなように遊べばいいさ」というのは、まあそうかもしれないが、ではこの焦燥感は何なのだろう? 「好きなように」って何だろう?

 


たぶん問題はもっと他のところにある。

孤独であることとか、野菜不足であるとか、運動不足であることとか、職場でうまくいっていないこととか、親と一悶着して実家に帰れないこととか、まあ、何かあるのだろう。

それとも、もしかして、うつ病であって、精神科に行けばいいのだろうか。

 


問題も、解決方法も、全然分からない。

 

ただ何となく、こうして憂鬱な気持ちのまま時間が過ぎて、どこかのタイミングで死ぬのだろうなという予想だけが頭にある。

 

思えば僕は、小学生の頃から「学校にも家にも居たくない」と思っていた。

中学以降は少しはマシだったけれど、「つまらないな」とは感じていた。

おそらく、死ぬまでそうなんだろうな、ということを漠然と感じている。

 

僕は人を救うことができないし、自分を救うこともできない。誰にとってもどうでもいい存在だ。

これを読んでいる皆さんは、きっとそうではないので、楽しく生きて欲しいと思う。

僕みたいにはならないでほしい。

 

 

 

*1:このブログを最近書かなかったのもそういう理由だ。

【仕事】 生活のために、やりたくない仕事をするということ ――人生はどこまで我慢するべきなのか?


会社に入って丸一年が経ったが、会社を辞めることばかり考えている。

 

今回は、結局どうするのか、というのを整理する意味で、今の気持ちを描いておきたい。

結論などは特に用意していません。

 

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【考察】 「生きる意味」はあるか。それはどんな内容か。

 


「生きる意味」について、できるだけ事実だけを積み上げて書いていきたいと思う。

「生きる意味」と書いたが、つまり「人生の意義」や「生きがい」と同義と考えて貰って構わない。

 

「事実だけを積み上げる」というのは、主観的な善悪とか、思い込みを含まずに考えるということだ。

 

 

まず結論を書くと、「生きる意味はある」というのも「生きる意味などない」というのも間違いだ。
その上で、どうすれば「自分には(○○という)生きる意味がある」と思えるかを書いていく。

 

 

 

■貴方に「生きる意味」はあるか

 

まず「生きる意味」を考える前に、「意味」とは何かをはっきりさせる必要がある。

辞書をひくと、意味とは
「行為・表現・物事の、それが行われ、また、存在するにふさわしい、価値。」
とある。


問題は"ふさわしい"という部分だ。
"ふさわしいかどうか"という判断は、主観的なものだ。
言い換えると、"ふさわしいかどうか"は、主体の受け取り方によって異なる。

つまり、"意味(価値)が有るかどうか"は主観的な問題(主体の受け取り方次第)ということになる。


分かりにくい表現だったかもしれないが、これは当然のことを言っているにすぎない。

例えば目の前にドーナツがあるとする。
甘党の人にとって、このドーナツは意味(価値)があるだろう。
しかし甘い物が嫌いな人にとって、ドーナツに意味(価値)はない。
このように、物が存在する意味(価値)は主体の受け取り方次第で変化する。

 

以上より、貴方の意味(価値)も、主体の受け取り方次第で変化する。

もし貴方がある人物に必要とされているのなら、今現在、その人にとって貴方には意味(価値)がある。
もし貴方がある人物に必要とされていないのなら、今現在、その人にとって貴方には意味(価値)がない。

 

まとめ。

あなたの「人生の意味」は、捉える相手によってあったりなかったりするし、内容も変化する。


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※余談。
「誰にとっても意味のない人間」は居ない。
というのは、「全ての人間に生きていて欲しい」と感じている人間は、少なからず存在するからだ。
そういう人にとって、あなたの人生(生)には意味がある。

逆に、「誰にとっても意味のある人間」は居ない。
というのは、「全ての人間に死んで欲しい」と感じている人間は、少なからず存在するからだ。
そういう人にとって、あなたの人生(生)には意味がない。

 

 


■自分にとって重要な「生きる意味」とは何か

 

さて、貴方の人生は、一部の人物にとっては意味があって、それ以外の人物にとっては意味はない、ということが分かった。

冗長に書き換えると以下のようになる。

<事実A>「対象Aにとって、あなたの人生には意味がある/ない」
<事実B>「対象Bにとって、あなたの人生には意味がある/ない」
<事実C>「対象Cにとって、あなたの人生には意味がある/ない」
<事実D>「対象Dにとって、あなたの人生には意味がある/ない」
<事実E>「対象Eにとって、あなたの人生には意味がある/ない」
<事実F>「対象Fにとって、あなたの人生には意味がある/ない」
<事実G>「対象Gにとって、あなたの人生には意味がある/ない」


 

これらの事実のうち、重要な事実とそうでない事実があるだろう。

重要な事実とは、「重要な対象にとって、あなたの人生には意味がある/ない」ということだ。

「重要な対象」は、言い換えると「あなたにとって意味がある対象」ということになる。

 

つまり
「あなたにとって意味がある対象にとって、あなたの人生には意味がある/ない」
という事実があなたにとって重要である。


まとめると、
貴方は、対象と互いに「意味がある」と感じ合っている場合のみ、自分にとって重要な「生きる意味」を持つ。

 

 

 

 

■貴方に、自分にとって重要な「生きる意味」はあるか

では、この話を具体化して実生活に落とし込んでみよう。

 

<パターン1>自分で自分のことを重要だと感じている場合

 この場合、貴方は対象と互いに「意味がある」と感じ合っているため、
 貴方には無条件に、納得できる「生きる意味」がある。
 その内容は、自分に問いかけてみればいい。
 つまり、「自分に意味がある」と感じる理由が、そのまま貴方の「生きる意味(価値)」だ。

 

<パターン2>とある他者を重要だと感じている場合
 この場合、貴方はその他者に重視されている場合のみ、納得できる「生きる意味」を持つ。
 それは親でもいいし、恋人でも、神でも良い。
 その内容は相手に「あなたにとって私の存在意義って何?」問いかけてみればいい。その答えが貴方の「生きる意味(価値)」だ。

 

<パターン3>「自分を含む全員を重要だと感じていない場合」
 この場合、貴方には納得できる「生きる意味」がない。
 『対象と互いに「意味がある」と感じ合っている』という条件は絶対に満たされないからだ。

 


■自分にとって重要な「生きる意味」を持つためにするべきこと

 

(方法①)自分を好きになる。
(方法②)誰かを好きになり、その対象に好かれる。

 

 この2つの方法がある。これ以外に方法はない。

 

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以上。

要するに、何かに意味を見出さない限り、自分自身の意味も生まれない。

 

 

 

 

【日記】 小説を新人賞に投稿した。

 

印刷した自作小説をポストに投函してきたので、その報告。

厚みのある文書を投函するなんて初めてで、ちゃんと届くか心配だ。

でもまあ駄目なら帰ってくるだろう。どきどきする。

 


書き終わったのは結構前(数カ月前)なのだけど、
誤字脱字チェックはもちろん、友人の皆様に読んで頂きコメントを基に修正したり*1

一人暮らしのため部屋を探したり車を買ったり、新居でプリンタや紙を買ったりで遅くなってしまった。

でもまあ自分なりに早くできたし良いだろう。

 


引っ越してから19日経つのだが、家では小説執筆しかしていない。
ブログを書いていないのも時間がもったいないからだし、趣味の映画も観ていない。
田舎すぎて他にやることがない、というのもあるかもしれない。まあ結果が良ければいい。

 


今後の人生については少し迷っている。

僕はこのままだと、仕事に熱中できず、家庭も築かず、ずっと孤独に趣味の小説を書いて過ごし、孤独に死ぬ。

それが自分にとって良いのか悪いのかよく分からない。

 

かといって、仕事に精を出したり、転職をしたりすると、生活が向上する可能性はあるが、小説を書く時間が減る。

それが自分にとって良いのか悪いのかよく分からない。

 


ふわふわしていて、よく分からないままだ。多分寂しいのだと思う。

だが、ただ流されていると事態はどんどん悪化する、ということも学んだ。

 

とりあえず今は、次の小説を書き始めたのでそれをさっさと終わらせようと思っている。
転職するのであれば早めに動かなければならないのだが……。

 

まあいい。憂鬱な気持ちがいつか消えればいいな、と思う。

 

*1:本当にありがとうございました。僕は幸せものです。

【家庭】 過干渉な親の下を離れた,1年目の正月帰省の報告

 

明けましておめでとうございます。

過干渉な親(毒親?)の家庭を4月に出た者が、正月に帰省して、どうだったかを書こうと思います。


※我が家の状況については、過去の記事を参照ください。

 

 

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まず、母は元気そうだった。
僕が出て行った当初は寂しがっていたそうだが、しばらくして諸事情で姉が家に帰ってきており、
そのお陰で寂しさが紛れたらしい。

「パートがつらい」とか「面白いことがない」とかそういう愚痴は言っていたが、まあ、普通の会話の範疇だったと思う。

そういう態度に対して、僕も特に思うところはなかった。気分を害することもなく聴けた。


今後の僕の転勤とか、転職とか、「いつ実家に帰ってくるのか」とか、そういう話はしなかった。あえて避けているようにも思えた。おそらく、僕が嫌がるのが分かっているのだ。
細かい胸の内は分からないが、とにかく直接的な話はしなかった。


帰宅後4~5日目(家を出る頃)には、少し際どい話もされた。
僕が数年前にあげた誕生日プレゼントがとても嬉しかったと話しながら泣き出したり、「お前が私のためを思って嫌々居間にきて話をしてくれているのは分かってる」と言われたりはした。

だが僕は別にどうも思わなかった。
同居している時だったら、こういうことで神経をすり減らしていたかもしれない。しかし今の僕は、母が割と簡単に「そういう状態」になることを知っているし、心を傷めることもなかった。理屈だけでなく、心の底からそう思えた。


こうした事からも、やはり「離れて暮らす」ということは非常に有用だと思う。
自分の考え方も好転したし、親側の状況も好転した(結果論だが)



だからやはり、親との関係に悩んでいる人には、一度家を出ることをお勧めする。

もちろん誰でも実践できる訳ではない。お金だって要るし、生活を変える覚悟だって必要だ。
だから「絶対しろ!」なんて無責任なことは言わない。

 

でも一つの(有力な)手法として、離れて暮らすということも考えておいてほしいと思う。

そうすることで、自分も親も変わる可能性がある。

 

 

【日記】 「工場研修」の実態と、研修を通して感じたこと

 

さて、久しぶりにブログを更新しようと思う。
現状報告だ。


今日の記事では、僕が行ってきた会社の「工場研修」の体験を、ひとつのモデルケースとして書き残しておこうと思う。

別に統計的な意味はないけれど、似た境遇の人や、似た境遇を歩むかもしれない人の助けになればと思う。

 

 

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まず最初に、工場研修をするに至った僕の人生を簡単に述べておく。

ここは初見の人向けに書くので、それ以外の人は無視してくれて良い。

 

 

■理系大学院生として(4月までの人生まとめ)

まず僕は26歳の男性である。某メーカー勤務の一年目。理工系出身で、研究職として採用された。

学歴は、某私立大学院卒。一浪して入ったので、現在26歳ということだ。

学生の間、つまり去年までは東京で実家暮らしだった。

その間、親(主に母親)との関係が精神的にうまくいかず、体調を崩したりした。
しかし休学などの措置は取らず、親とも大きなトラブルは起こさず*1、ストレートで卒業した。

就活は、まあ真面目にやったが、やりたい仕事がある訳でもなかったので強い希望は無かった。
理工系なのでメーカーを選び、とりあえず潰れない大企業を選んだ。

家庭の問題の影響で、東京から離れて一人暮らししたいな、とは思っていた。

 

 

■大手メーカー研究職一年目(4月~今日の人生まとめ)

入社後一ヶ月くらいは、本社研修(ビジネスマナーや電話対応などを型どおりに学ぶ)を受けた。
これはどこの会社も同じだろう。

 

その後は数ヶ月、会社の「工場実習」というものに従事した。
これはつまり、工場(現場)で働くことのない社員(研究職・営業・事務員など)が、工場の空気や仕事を知るために数ヶ月間研修に出るというものだ。

あえてはっきり言うのであれば、大卒以上の内勤の人間が、高卒で地元就職した人々の工場労働を体験する、というものである。

 

業務というよりは研修なので、「工場の利益に貢献する」という事よりも、「本社への報告」(現場を理解できたというアピール)が主要なアウトプットといえる。

この「工場研修」という風習はメーカー(製造業)では一般的なものらしい。
この工場実習の長さ・業務内容は会社によって違うし、事業部によっても違う。
とりあえず僕の場合は、半年間、とある中国地方の工場の新人として業務に当たった。

 

で、今日をもってその工場研修が終了した。
明日からは本社の研究所(もとの配属先)に勤務することになる。

住むところも変わる。
中国地方に住むのは今日までで、明日からは北陸地方に住む。

 

 

■大手メーカー研究職二年目以降(今後の見通し)

明日からは北陸地方で、研究職で勤務する。

研究職の勤務地は、当然、研究所だ。

研究所は本社にある場合もあるし、別の場所にある場合もある。

弊社は後者で、複数の研究所がある。そのひとつが北陸地方にある。

 

具体的な業務内容はまだよく分からないが、大雑把に言えば、工場で駆動している機械(広義のロボット)に関する研究だ。
まぁ仕事に期待していないので、内容は別にいい。

 

また、この勤務地(勤務部署)は永続的なものではなく、過去の例から言うとせいぜい2~4年程度らしい。

その後どこに行くのかは分からない。

 

転勤先の予測は、はっきり言って不可能と言える。
研究所内の異動(確率的には最も高い)であれば、ほぼ確実に関東になる。

事業部(ざっくり言えば、研究所よりも商品に近い仕事をする部署)に異動になる可能性も大いにある。
この場合、全国に事業部があるため、北海道から九州までどこに行くか分からない。
(海外事業部に行くことは、ほとんど無いらしい)

またその転勤先も永住の地である保障は全く無い。
要するに転勤族「になる可能性」は常に存在する、と言える。

※こうした事情は、大手メーカー*2の理系人にとってはほぼ共通であると言える。

 


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以上が客観的な僕の立ち位置だ。

 

次に、工場研修を体験してどう感じたか、主観的なことを赤裸々に書こうと思う。

 


■工場実習は大変か?

前述のとおり、実習先によって大きく異なる、ということを念頭において読んで欲しい。

 

僕の場合、まず、肉体的に大変しんどかった。
基本的に立ちっぱなしの作業で、物を運んだり、素早く動いて機械を操作することが求められた。
拘束時間も極端に長く、そのためすぐに足が筋肉痛になった。
少しでも楽になるように、毎朝ビタミン剤を飲んだりもした。

 

また、勤務体系もきつかった。昼勤と夜勤が交互に組まれていたため、睡眠時間の調整が過酷だった。

この肉体的辛さは、今までの人生で最上のものだった。
受験生の時や、院生の時もほぼ無理をしたことはあったが、それを遥かに凌ぐ辛さだった。

特に夜勤は、疲労と眠気でよく分からなくなった。
朝に帰るときは、疲れからお米が喉を通らず、うどんなどしか受けつけない時もあった。
約半年間この勤務体系をこなしたが、別に慣れるということもなかった。

 

また、危険な作業も、実際のところ存在した。
有害そうな薬品であったり、重量物や刃物の近くで作業することもあった。
もちろん安全対策はなされているが、指を切断するなどという事故も過去に起きていた。


※他の実習先に行った人の場合。
しつこいようだが、こうした事情は実習先によって違う。
ひとつ前の工程に勤務しただけでも大きく変わる。
具体的には、座ってする仕事だったり、そもそも夜勤がない場合もあるらしい。

 

※さらに、僕のような「肉体的にしんどい実習」は、女性社員はしない。
 単純に体力の差もあるし、前述のような危険な環境に女性を置くのは、社会的によろしくないのだろう。*3

 


■工場実習の賃金

ただしその分、賃金は高かった。
というのは、残業代・深夜手当て・土日出勤手当が出るからだ。
(もちろん条件を満たさない部署ならば出ない)

具体的には、家賃や水道光熱費を天引きされた状態で、手取り27万円ほどだった。
これは現場従業員と同じ給料だ。つまり彼らは高校を出た時点でこの給料を手にすることになる。*4
そして工場内で出世すれば増えていくことになる。

 

これは、本社研究職一年目の給料より遥かに高い。
しかし一般に、生涯賃金では本社研究職のほうが上らしい。
僕としては信じられない話なのだが、世間一般としては常識らしい。

 


■現場の労働者について

僕は、現場の労働者(地元の高校を出て工場で働いている人)にほぼ初めて触れた。
中学から私立だったし、東京在住だったので、そういう人に会うことはなかった。

 

結果、僕の知っている人々とは少し違った。
まず結婚年齢が若い。あと外見が砕けている人が多く、敬語をあまり使わなかった。
性格は明るい人が多かったように思う。一方、もちろん陰湿な人も居た。
スポーツの話題が最も多く、あとはギャンブル・風俗の話題も多かった。

 

悪い人間が多かったという話ではない。

親切な人も居た。二人で飲みに行った人もいた。

良い人も悪い人もいる、というのは、すべての集団に言えることだと思う。


ただ、僕は元々上記のような話題に明るいわけではなく、割と現場の人と距離があった。
その距離は半年では埋まらなかった。

僕は彼らと距離を作るつもりはなかったが、まあ、元々性格が合わなかったのだと思う。
あまり気にしなかった。

 


■人生の選択について(高卒で現場労働か、大卒以上で内勤か)

別に人生は「高卒で現場労働」「大卒以上で内勤」の二種類だけではないのだが、
今回ふれたのがこの2つだけだったので、これらを比較したい。

 

まず僕の気持ちとして、この二つに貴賎の差は感じなかった。
中には「院まで出て工場で働くなんて屈辱」なんて言う人も居るようだが、
僕はそうは思わなかった。
工場で這いつくばって雑巾がけしても、別に惨めだとは思わなかった。
現場の人に怒鳴られても、別に屈辱だとかは思わなかった。

 

ただ、どちらの仕事が楽かと言えば、圧倒的に「大卒以上で内勤」だと思う。
僕は肉体的疲労の辛さを知った。これは根源的な辛さ故か、耐え難いものだった。

この半年ほど、内勤を選んで良かったと思った時はない。
座って仕事ができるということが、少なくとも僕にとっては重要だと気付かされた。
しかも「大卒以上で内勤」の方が生涯賃金が高いというのだから信じられない。
はっきり言って不平等だと思う。


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僕は工場研修を通して、今まで以上に保守的な人間になったと思う。
つまり、失敗することが怖くなった。

肉体労働がこんなに辛いと思わなかった。
「仕事なんて何でもいいや」「何かを目指して、失敗してもいいや」なんていう考えは、もう持てなくなった。
世の中には本当に過酷な労働環境があるということを知った。
しかしこれでも、噂に聞く「ワーキングプア」などよりは良い境遇らしい。ぞっとする。
誤解を恐れず素直に言うが、内勤になれて本当に良かったと思った。

 

繰り返すが貴賎の問題ではない。

単純に、世の中には労働条件の格差があることを知った、という話だ。

 

ここ(この国? この時代?)は、本当に恐ろしい場所だと思う。
出来ることなら、僕がこんな現状を何とかしたいが、申し訳ないのだけど力不足でそれは出来ない。

僕はただ震えながら生きることしかできない。

これを読んでいる貴方も何とか無事に生き延びて欲しいと思う。

 

 

 

*1:体調不良も隠した

*2:つまり全国に工場を持っている企業

*3:別に良いとか悪いとか言っている訳ではない

*4:もちろん弊社内での話